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 李 小狼の朝は早い。
 顔を洗うと白い稽古着に着替え、裏庭に出る。日課である拳法の稽古のためだ。
 親指の先ほどの玉砂利が敷き詰められた上で、ストレッチ代わりの基本の型を軽くこなして
 いると、同じく稽古着姿の偉が姿を見せる。
 彼は小狼の拳法の先生でもあった。

 「おはよう、偉」

 「おはようございます、小狼様。夕べは良くお休みになれましたか?」

 あれほどの気配に、少なからず魔力を持つ偉が気づかぬ筈はない。
 昨夜の一件も当然知っているだろうに…。
 小狼は短く答えた。

 「…ああ」

 それ以上の会話はなく、一礼と共に互いに構える。
 そして、鋭い攻撃と巧みな防御が繰り返された。
 つま先が弧を描き、拳が朝の空気を切り裂く。
 直線と曲線。急と緩。剛と柔。
 長い時間が研ぎ澄ました、無駄のない型。
 蹴りを避けて跳びずさり、肘を受け止める。
 あたかも洗練された舞踏のような、その動き。

 小狼の最初の記憶は、偉から拳法の型を習っているというものだ。
 多分、四つか五つの頃のものだろう。そして、苺鈴が隣にいた。
 めったに会うことの出来ない近寄りがたい母。
 騒々しくて小狼が嫌がるような悪戯やからかいばかりをしてくる四人の姉。
 物静かな使用人達。
 父の姿はない。最初の記憶より、ずっと昔に亡くなったのだ。

 …そう聞かされているが、何故亡くなったのか、どんな人だったのか、よくわからない。
 家では誰も父の話をしないからだ。
 小狼は父の子供の頃によく似ているらしい。親戚の誰かが、そう言っているのを耳にした。
 けれど、何故か父の写真は家のどこにもない。
 …なんとなくだが自分がもっと強くなり、≪一人前≫と認められた時に教えてもらえるの
 だろうと考えていた。
 父のことだけではない。他の、いろいろなことも…。

 自分の家族や親戚や先祖のことなのに、小狼にはまだ知らないことが多かった。
 だから、早く強くなりたいと思う。
 己のことや己の属する世界のことを、きちんと知るために。
 そして、それから……

 「…それで、かくれてるつもりか?」

 稽古を終えた小狼は、礼の姿勢から背を正すなり背後の植込みに向かって声をかけた。

 「か、かくれてるんじゃなくて…その…」

 さくらが濃い緑の葉陰から姿を現した。
 まだ昨日の服を受け取っていないのか、オレンジ色の中国風の衣装を着ている。
 李家を頼ってくる者は文字通り≪着の身着のまま≫の場合が多いため、着替えは豊富に
 用意してあるのだ。

 「だろうな。気配も消してなかったし」

 取り付く島もない小狼のセリフに、さくらは困ったように『はう〜』と声をもらした。
 結局は、よく眠れなかったのだろう。少し目が赤い。

 「おはようございます、さくら様。お散歩ですか?」

 ニコニコと朝の挨拶をする偉に、さくらは慌てて言った。

 「あ、偉さん、おはようございます。えっと…はい」

 「朝食は7時半からですので、他の皆様と食堂までお越し下さいませ」

 偉は恭しく一礼し、二人を残したまま立ち去った。
 タオルで汗を拭いながら、小狼は躊躇(ためら)っていた。昨夜、母に何と占われたのか、
 尋ねるべきかと。
 だが小狼が黙ったままでいると、さくらが先に口を開いた。

 「ごめんね、李くん。お稽古の邪魔、しちゃって」

 どうやら小狼の無言を、自分のせいで不機嫌なのだと思っているらしい。

 「…べつに。いつもの日課だからな」

 素っ気無い小狼の返事に、さくらは眸を丸くした。

 「えっ、じゃあ毎日、こんな朝早くからお稽古してるの?」

 「ああ」

 「日本でも?」

 「…ああ」

 「李くんって、やっぱりすごく頑張りやさんなんだね!」

 小狼はタオルを首に巻いたまま、さくらの方へ顔を向けた。
 その鳶色の眸に剣呑(けんのん)さが浮かんでいることにも気づかず、さくらは熱心に
 しゃべり続ける。

 「だって、わたし朝早いの苦手だし。夏休みの絵日記だって、三日坊主だし。
  それに格闘技とかも全然出来なくて、≪闘(ファイト)≫のカードさんの時も、苺鈴ちゃんや
  李くんに助けてもらったよね。
  でもでも、運動は好きだから今からでも頑張って練習すれば、わたしも李くんみたいに
  なれるかな?」

 「今のおまえは≪闘(ファイト)≫も≪剣(ソード)≫も持っている。こんな修行、必要ない」

 思わず口にしてしまってから、小狼は唇を噛んだ。
 苦い悔いが胸に拡がる。

 「…悪かった」

 「ほえ?」

 さくらは不思議そうに小狼を見た。
 彼の言葉の裏にあるものに、何も気づいてはいないのだろう。
 それが小狼を余計に居たたまれない気分にさせる。

 「わからないなら、いい」

 「李くん…?」

 「ケルベロスの朝食は、また運ばせる」

 その場にさくらを残し、小狼は着替えのために自室へ戻った。


    * * *


 小狼は、腹を立てていた。誰にでもない、自分に対してである。
 己の力不足を他人への妬みにすりかえるなんて、最低だ。
 小狼は、ずっとそう思っていた。
 彼は勉強も運動も良く出来たし、おまけに高台のお屋敷に住んでいて黒塗りの車で送り迎え
 されるような子供だったので、香港の学校では妬まれることが少なくなかった。
 だが、売られたケンカは倍返しする苺鈴とは違って、小狼はそんな相手を軽蔑し、無視する
 だけだったのだ。
 なのに……。

 小狼は、苦い気持ちで思い出していた。

 ……クリスマスの遊園地で、アイツは≪風(ウィンディ)≫と≪水(ウォーティ)≫の二枚の
    高位カードを同時に発動させ、≪火(ファイアリー)≫を捕獲した。
    おれは≪時(タイム)≫を数分使っただけで、立っていることも出来ないほど消耗して
    いたのに…。

 薄々、感じてはいた。それが、あの時にハッキリと証明されたのだ。
 もう魔力ではアイツに追い抜かれていると。
 わからなかった。
 幼い頃から道士の修行を受けている自分が、何故、あんな普通の女の子に…?

 カードの捕獲に出遅れたからか?
 ≪封印の杖≫を手にしているのがアイツの方だからか?
 ケルベロスがついているからか?

 ……違う…。

 小狼は、思った。

 ……そんなことじゃない。
    アイツは…アイツには、≪何か≫があるんだ。
    おれにはない、何か。
    それが何なのかは、わからないけれど…。

 今朝の占いは、気が乱れすぎて失敗した。
 己の修行不足にため息をついて、小狼は食堂へと向かった。


    * * *


 その日の朝食は、イングリッシュ・ブレックファーストだった。
 昨日のホテルでの朝食が中華粥だったので、同じではつまらないだろうとの配慮だ。
 卵の焼き方から付け合わせ、トーストの厚みまで逐一偉に聞いて回られ、慣れないさくらは
 目を白黒させていたが。
 むろん、朝食はケロの元にも運ばれていた。
 卵料理を一つに選べなかったケロは、ベーコンエッグとオムレツの両方をオーダーして、
 後でさくらを呆れさせた。

 …もっとも、雪兎はそれに加えてハムエッグとスクランブルエッグも頼んでいたので、
 さくらもケロを叱るわけにはいかなかったのだが…。
 皆が食事に、おしゃべりにと忙しく口を動かす中。紅茶を飲みながら、夜蘭は当たり前の
 ように言った。

 「小狼。今日は一日、皆さんと御一緒なさい」

 小狼はトーストにマーマレードを塗る手を一瞬だけ止めた。

 「はい」

 「じゃあ李君、もしよかったら色々案内してもらえないかな?ね、さくらちゃん」

 「は、はい。…でもでも、迷惑だったら…」

 何枚目かの厚切りトーストを受け取りながらニッコリ笑いかける雪兎と、おずおずとこちらを
 伺うさくら。
 二人を同時に視界に入れて、小狼はかあああっと頬を染めて、言った。

 「べ、べつに、迷惑なんて…」

 「よかった!」

 ぱあっと笑顔になるさくらから目をそらし、小狼はオレンジジュースを手に取った。

 「…ねぇ、ちょっと」

 「うん…」

 姉達が互いに肘を突つき合い、短く囁きを交わす。
 知世は密かに、この席にビデオを持って来なかったことを悔やんでいた。
 そして、桃矢は……ほんの少しだけ眉間に皺を寄せて、夜蘭の顔を見た。



                                        − つづく −


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 (初出01.5〜8 「友枝小学校へようこそ!」様は、既に閉鎖しておられます。)