− 9 − 高い塀に阻まれて、小狼はさくらの姿を見失った。 おそらく、≪跳(ジャンプ)≫を使ったのだろう。 魔術を使えば、小狼にもこの程度の塀は越えられる。だが、彼のすぐ後ろを桃矢と雪兎が 追ってきている以上、それは出来なかった。 ……くそっ! 小狼は、≪魔≫の気配に集中しながら塀に沿って走った。 向こう見ずな少女も、そこに向かっている筈なのだから。 「さくらちゃん!」 途中で追いつかれ、小狼は雪兎と桃矢と並んで、路地裏の古びた骨董屋に走り込んだ。 間違いなく、≪魔≫の気配の源はここから発している。 果たして、さくらは店の中にいた。こちらに背を向けて、ぼんやりと立っている。 「…あっちこっち、探し回ったんだぞ!!」 桃矢が安堵を怒りに変えて、声を高める。 だが、小狼の表情は強張った。 「…この気配…!」 さくらが、ゆっくりと振り返る。まるで機械仕掛けの人形のように、ぎこちない動作で。 桃矢へと向けられたその眸には…意志が、なかった。 「さくら…?」 「小狼!」 「さくらちゃん!!」 苺鈴と知世が相次いで、ドアをきしませ飛び込んでくる。 それが合図であったかのように、突然、さくらが手にしていた古い本を開いた。 ひきちぎれた封印の札が、ひらりと舞う。 ドォン!! 今まで感じたことも無いほどの、巨大な≪魔≫の塊が爆発した。 さくらを…いや、手にした本を中心に空気が震え、青白い燐光が放たれる。 風が巻き起こり、窓のカーテンを吹き上げ、本の黄ばんだ頁を音を立てて繰っていく。 「さくら!どうしたんだ、おい!?」 桃矢が、虚ろな眸の妹の肩を掴んで揺さぶる。その拍子に、本が床に落ちた。 同時にピタリと風が止み、さくらの眸に光が戻る。 「苺鈴!大道寺!!」 小狼はとっさに振り返り、二人に店の外へ出るようにと口を開きかけた。 だが、遅かった。 次の瞬間、開いた本の頁から水がどっと溢れ出た。 もちろん、ただの水ではない。人間をとり込むための、魔力で創られた水だ。 みるみるうちに水位が上がり、あっという間に頭まで水に浸かってしまう。 小狼は苺鈴と知世の手を掴もうとしたが、ふっと二人の姿が消えた。 二人だけではない。桃矢も、雪兎も、さくらも…。 骨董屋の店の壁を埋め尽くしていた棚も、床に転がっていた壷も、壁も床も消えていく。 そして、白くなった視界は暗く青みを帯び…辺りはまるで遠い国の遺跡のような、傾き、 崩れかけた柱の並ぶ奇妙な空間になっていた。 ……相手の魔力が創り出した世界に、とり込まれたか…。 水面から顔を出した小狼は、そう結論づけた。 折れて突き出した柱の断面に身体を引き上げると、濡れていた筈の髪や服が、すうっと 乾いていく。 ……やっかいなことに、なりそうだ…。 この空間には、≪気≫のエネルギーが極端に乏しい。 小狼の…というより、李家の。そして、主だった魔術の大半は、自然界の≪気≫を術者の 魔力で現実的な≪力≫へと変換させるものだ。 李家の護符は、長々と呪文を唱えたり魔方陣を描き出す手間を省いて、特定の≪気≫を 呼び集めるためにある。 ≪風華≫には、≪風≫。≪火神≫には、≪火≫…と言った具合に。 だが、それぞれの魔術に必要なだけの≪気≫が、ここにはない。 通常の攻撃魔法や呪縛魔法が使えないとすれば、頼りになるのは彼が捕獲した クロウカードだけということだ。 クロウカードは、カード自体がクロウ・リードの魔力で形作られた≪精霊≫…いわば、 ≪気≫の塊だ。 発動には主となった者の魔力を必要とするが、発動そのものには新たな≪気≫を必要と しない。 それにしても、ここは何という世界だろう…? 魔力が創る空間は、多かれ少なかれ、術者の心象風景を反映する。 誰もいない廃墟。白い天井と壁に囲まれた閉ざされた世界に、水音だけが響いている。 静寂の中に満ちる、深い哀しみと、そして悔恨……。 ……この空間を創り出した者は……。 「何故、おまえのような小娘が、ここへ来たのだ!?」 甲高い女の叫びが、空間を震わせた。 一転して静寂は破られ、怒りの波動が押し寄せる。 そして、魔力の発動する気配。 良く知っている、気配。これは……。 ……アイツか…!? 小狼は宝玉を取り出すと剣を呼び、一枚の護符をかざした。 「……急々如律令、≪浮歩≫!」 銀砂を撒いたような細かな光が小狼を取り巻いた。 注意深く足を踏み出すと、彼の身体は沈まずに水面に浮きあがる。 李家に伝わる、水や雪の上を歩くための魔法だ。己自身が発する≪気≫を利用するため、 この空間でもどうにか使うことが出来るようだ。 激しくうねり始めた水面を蹴って、小狼は魔力の源へと走り出した。 − つづく − ≪TextTop≫ ≪Top≫ *************************************** (初出01.5〜8 「友枝小学校へようこそ!」様は、既に閉鎖しておられます。) |