月の裏側 − 月は、いつも同じ面(かお)を地上に向けている だから、人は肉眼で月の裏側を見ることは、けっして出来ない − − 1 − 「よしっ、これでおわりっと」 そう呟いた月城 雪兎は、汚れた雑巾をバケツの黒ずんだ水の中に放り込んだ。 エプロンに手ぬぐいで頭を包み、床に置き忘れていたハタキを手にとったその姿は、 どこから見ても≪お掃除おばさん≫である。 そんな姿が妙に似合って見えるのも、彼の持つ穏やかで優しい雰囲気の所為だろう。 彼は今、二日がかりの大掃除を終えたところである。 今時めずらしい、この純日本風の平屋は、一人で掃除をするには少々広かった。 午前中、桃矢とさくらが手伝いに来てくれて、庭の掃除(何しろ、竹林まであるのだ)をして くれたのでなんとか終らせることができたが、来年はもう一日早く始めようと思う雪兎だった。 そろそろ桃矢は午後からの短時間のバイトを終えた頃だろう。 着替えのために家へもどったさくらは、空港で待ち人に会った後、どこかでお茶でもしている のかもしれない。 掃除道具を片付けながら時計を見た雪兎は思う。 そして、また声に出して呟いた。 「ぼくも、着替えなくちゃ。待ち合わせに遅れちゃうね」 一人で暮らす者によくある、独り言の癖。 この大きな家に、彼は一人で住んでいた。 表向きは、祖父母と暮らしていることになっている。 近所の人もそう思っているし、彼自身もニ年もの間そう思っていた。 だが、自分が人間ではないということを知った時、真の姿によってかけられていた暗示が解け、 偽りの記憶はゆっくりと遠ざかっていった。 それでも、彼は本当の≪独り≫ではなかった。 最近、少しだけれど感じるようになったのだ。 自分の中にいる、もう一人の自分を。 (雪兎の中で、ユエの意識が身じろいだ。 仮の姿でいる間、真の姿の人格であるユエ…中国語で月を意味する…は雪兎の意識の奥で まどろんでいる。 ユエでいる間のことを雪兎は覚えていないが、雪兎でいる時のことをユエは全て覚えていた。 それは、白昼夢のようなもの。 自分ではない自分が、自分のものではない別の生活をしているのを、ぼんやりと眺めている。 そんな感覚。 だが、雪兎がユエを思う時、ユエの意識は雪兎と重なる形で目覚めるようになっていた。 ユエは現在、まだ小学六年生である木之本 桜という少女の守護者である。 幼いながら以前の主、不世出の魔術師クロウ・リードに匹敵する魔力を持つ今の主を、 彼はけっして嫌いではなかった。 『主とかじゃなくて、≪なかよし≫になってほしいな』 かつて少女は、そう言った。 はじめから、決まっていたのだ。新たな主は。 『では、ユエが決めればいい。その人が主として相応しいかどうか』 確かめるための、最後の審判。 起こすつもりのなかった、この世の災い。 『すべての生き物に等しく終りはやってくる…。だから、私も準備をしなければならない。 私の後に、おまえ達を愛(いつく)しんでくれる人のための準備を…』) − 2 − グレーのスーツに袖を通しながら、雪兎は去年の今頃のことを思い出していた。 去年の元旦は、自分が消えかかっていることにも気づかず、眠くてたまらずに玄関で倒れていた。 初詣の待ち合わせ場所に現れない雪兎を心配した桃矢が訪ねてきて、翌日まで付き添ってくれた。 目が覚めた時、大鍋いっぱいのお雑煮を作ってくれて、それを二人で(ほとんどは雪兎がだが) 食べたのが嬉しかった。 あの頃、ずっと不安だった。 漠然とではあるが、自分の身に何かが起こっていることを感じていた。 でも、知るのが怖かった。知られるのが…怖かった。 けれど、今。 彼のこころは静かだった。 自分が何者か、知っているから。 それをそのままに受け入れてくれる人が、傍にいるから。 雪兎はマスタードイエローのコートを羽織り、マフラーを首に巻くと、最後にこの前のクリスマスに さくらからプレゼントされたグレーの手袋をはめて、玄関に向かった。 * * * 午後6時。 冬至を過ぎたばかりなので、もうとうに陽は落ち、空には星が輝いている。 良く晴れた、空気の澄んだ夜になりそうだ。 風もなく、外で冬の夜を過ごすには有難い。 特に今日、亜熱帯の国からやってきた客人にとっては。 そう思いながら歩いていると、少し先にキャメルのコートを着た、背の高い人影を見つけた。 「とーや!」 声をかけると、振り向いた。 以前なら、彼が声をかけるより早く彼の方が振り向いただろう。 だが、それを気にするのは止めた。これ以上、頬をつねられたくはないから。 「ゆき、掃除終ったのか?」 「うん、おかげさまでね。手伝ってくれてありがとう、助かったよ」 そう会話をしながら、桃矢がココアブラウンの手袋をしているのを目に留めた。 自分と同じものの、色違いだ。 だが、それを指摘はしなかった。 桃矢のことだから、あれこれ文句をつけた上、外してポケットに突っ込み兼ねないからだ。 月城 雪兎と木之本桃矢は、三年前に雪兎が星條高校の同じクラスに転入してきて以来の 親友だった。 二人は今、共に塔和大学の一年生である。 雪兎にとっては、桃矢に出会ってからの日々だけが本当のことだった。 「ゆき、どうする?どっかで年越しそばでも食ってくか」 「そうだね。まだ少し時間があるし、腹ごしらえしていこうか」 二人は並んでたわいない会話を続けながら、年の瀬の友枝商店街を歩いていった。 (≪こころ≫というものは、とても強い。 それが例え、創られた仮の姿のものであったとしても。 時に雪兎の強い想いはユエのコントロールをも凌駕する。 例えば、無意識に自分が人間ではないことを悟っていた雪兎が、それを桃矢に知られまい として、桃矢の前でのユエの出現を妨げていたように。 正直、驚いた。雪兎の中の想いの強さに。 それは明らかに、主を想う気持ちに勝っていた。 主に仕え、主のために存在する≪守護者≫の仮の姿が、その存在意義に反する想いを 自らの中に育むとは。 だが、それ以上に驚いたのは、その想いを向けられた相手だった。 主の兄…木之本桃矢は、知っていた。 雪兎が人間ではないことも、彼の魔力を必要としていることも。 そして桃矢は、持てる魔力の全てをユエに渡したのだ。 『あんたが消えたら、ゆきも消えるんだ。 さくらも守って、自分の身も守ってくれ』 それが、魔力との交換条件だった。) − 3 − 待ち合わせは、午後7時に友枝遊園のゲート前。 今日は、20世紀最後の日だ。 新世紀へのカウントダウン・イベントで遊園地は翌日の午前2時まで営業する。 午前0時と共に何百発もの花火が打ち上げられ、ぬいぐるみや電飾で飾られた馬車や 車でのパレードも行われる。 海を越えてやって来る客に短い滞在を楽しんでもらいたいと、さくらはそのイベントに行きたがった。 桃矢と雪兎はその付添いである。 そのまま、花火とパレードを見終わったら月峰神社に初詣に行き、その後木之本家で 藤隆さん特製のおせちとお雑煮をいただくというプランである。 『いいのかな。新年早々、家にまでお邪魔しちゃって』 そう遠慮する雪兎に、 『ば−か、んな気、遣うんじゃねぇよ。 父さんもいいって言ってくれてるし、それに来るのはお前だけじゃねえし。 知世ちゃんも、あの香港のガキも来るっていうし』 セリフの最後で、苦虫を噛み潰したような顔になった。 さくらの親友である大道寺知世は、母親が急な仕事で外国へ行ってしまい、二日にならなければ 戻れないとのことで、それならとさくらが誘ったのだ。 …自分のことも、正月をあの広い家で一人で過ごすことのないようにとの思いやりなのだろう。 本当に、こういうところはよく似た兄妹だから。 * * * 待ち合わせ場所は、同じようにカウントダウン・イベントへ繰り出した人でいっぱいだった。 さすがにお祭り好きの友枝町の住人達だ。 だが、待ち合わせの相手はすぐに見つかった。 華やかな晴れ着姿の二人の少女は、オレンジのダウン・ジャケットに緑のマフラーを巻いた 少年に守られるようにして人ごみの外れに佇んでいた。 「こんばんは、さくらちゃん、知世ちゃん。着物、とてもよく似合ってるね」 「こんばんは、雪兎さん」 「こんばんは、月城さん」 さくらは襟元のほんのりとした桜色から裾にかけて深みを増す紅色の地に大輪の牡丹の花の、 知世は濃い紫の地に様々な色の蝶の柄の入った着物を着ていた。 このまま初詣をするからということで着付けたのだろう。 周囲にも、晴れ着の女性や子供が大勢いる。 さくらの場合、晴れ着を見てもらいたい人がいたからということもあるのかもしれない。 今は防寒のためにストールにくるまっているが、空港のロビーではそれを外していた筈だから。 「こんばんは、よくきたね」 微笑んで挨拶する雪兎に、李 小狼は礼儀正しく頭を下げて挨拶を返した。 短い休みをさくらに会うために、はるばる香港からやって来たのだ。 また少し、背が伸びたようだ。 そして頭を上げたとたん、雪兎の後にいた桃矢と視線を合わせ…派手に火花を散らしあったのだが。 「はうぅ〜〜」 と、困った顔ををするさくらに気づき、小狼はものすごくぎこちなく桃矢に向かって頭を下げた。 「お…お世話になります」 敢えてそっぽを向いたままの桃矢より、この少年の方が大人なのかもしれない。 じゃあ、とにかく…と、連れ立ってゲートをくぐりながら雪兎はそっと囁いた。 「あきらめが悪いね、とーやも。 その調子で、さくらちゃんがお嫁に行っちゃうまで、にらみ合うつもり?」 「…そんな先の話、すんな…」 仏頂面の桃矢にくすりと笑みを洩らしつつ、雪兎は思う。 桃矢がユエに魔力を渡したのは、ユエが、そして雪兎が消えることによって、さくらが悲しむことを 避けるためであったのだろうと。 もちろん、雪兎自身を大事に思ってくれた、その気持ちも本当なのだと判ってはいるが。 …桃矢は、歳の離れたこの妹を、とても大切にしているから…。 ふと、雪兎は小狼と並んで自分達の少し前を歩いているさくらを見つめる。 日ごとに子供っぽさが抜け、少しづつ大人へと花開いていく少女。 その笑顔を雪兎はただ、優しく穏やかな気持ちで見ている。 まるで、遠いところに輝く星を眺めているかのように。 少女の隣の少年のように、頬を赤らめてその晴れ着姿を盗み見ることも、ダウンジャケットの ポケットの中に突っ込んだ手を、固く握り締めることもなく。 少年を見つめ、幸せそうに微笑んでいるさくらを見て、雪兎もまた微笑んだ。 (『雪兎はさくらさんと出会って、さくらさんを一番好きになると思っていた』 かつての主、クロウ・リードの生まれ変わりである柊沢エリオルは、言った。 そのために、雪兎は主の父親の姿とひととなりを写し取って創られたのだ。 それは、少女にとって理想の≪永遠の恋人≫である筈だった。 もしも、主に兄・桃矢がいなければ。 桃矢が雪兎の正体を一目で見破りながら、それを受け入れられる人間でなかったら。 雪兎もまた、主を唯一の存在として愛さざるを得なかっただろう。 そう、ユエは思う。 雪兎は孤独だったから。 無意識下で自分には過去がないことも、肉親がいないことも、人間ではないことも知っていたから。 本当の自分を受け入れてくれる誰かを求めていた。 頬を染めて、まっすぐに自分を見つめてくれる≪親友の妹≫の瞳を、とても嬉しく、愛しく想っていた。 家族のように…肉親のように。 やがていつかは、唯一の異性として。 その筈だった。 その心に歯止めをかけたのは、少女に近づくための手段でしかなかった筈の≪親友≫の存在と そして、この少年。 主の兄は、その魔力故に初対面で判っていたようだが、雪兎もかなり早くから気づいていた。 自分に対し、父へのような兄へのような好意を寄せる…と雪兎は思っていたが、それは一面 において間違いではない…少年が、その一方でいつも主を目で追っていることを。 にらむように、もどかしそうに、やがてはぼんやりと、頬を染めて。 怒る桃矢をからかいながら、いつも微笑ましく思っていた。 『君はさくらちゃんのことが、本当に好きなんだね』 そう少年に囁いた瞬間に、雪兎の中の主への想いは≪妹≫のまま、永遠に育つことを 止めてしまったのだろう。) − つづく − ≪TextTop≫ ≪Top≫ *************************************** |