ご注意 このテキストは、小説「世界の果てには蝶が舞う」を参考にしつつ、 大捏造を加えています。 また、既出「探偵」の後日という設定です。 再読が面倒な方は、以下の4行を反転させてください。 原作最終回・大使館人質立て籠もり事件の交渉に南米を訪れた探偵・桂木弥子(19歳)は 犯人グループと話す中、かつて笹塚が彼等にゲリラ戦を学んでいたことを知る。 3年前の彼の単独行動を“謎”だと感じていた弥子は、笹塚を彼等に紹介した ナツメ・ファミリアの人々に会おうと決意する。 上記の設定に興味が無い方は、お時間を無駄になさらないように このままお戻りください。 「読んでみてもいい」と思われた方は、このまま↓にスクロールをお願いします。 |
最 果 − 序 − 指定の場所で受け取った、最後の荷物。 確認を終えた笹塚は、男に札束を詰めたバッグを手渡した。 10年近く勤めた警察の給料。両親が残した遺産と保険金。 銀行の口座は乏しいが、今月の引き落とし分はあるだろう。 だが、それでも支払った額は、相場で言っても格安だ。 注文の倍はある弾薬。銃器類も中古ではなく新品だ。 請求書のサインの下には、懐かしい筆跡。 『片付いたら、顔を見せろ。 エマが待っている』 スペイン語の綴り。 金色の髪と碧の眸の少女を思い出した。 今や4児の…5児目が腹にいる…逞しい母親だ。 いつか一緒にアサギマダラを見つける約束も、果たせないまま過ぎた10年。 札束を数え終えた男に、笹塚は小さなダンボ−ル箱を手渡した。 日系4世だという彼は、笹塚が自分のボスの友人だと聞いているのだろう。 恭しい態度で箱を受け取る。 宅急便より、この方が確実だ。 船で日数が掛るのも、却って都合が良い。 男が去った後も、笹塚は暫くその場に留まった。 早く準備をと焦る気持ちを抑えるように、煙草を取り出し火を点ける。 両手に黒い手袋を嵌めていても、不自由はない。 煙はゆらゆらと、くすんだ都会の空に溶けるように消えていった。 − 1 − 静かに微笑む顔を、見たと思った。 鼓膜を貫くような、拳銃の音を聞いた。 ……あれから、5日。 笹塚さんのお葬式が行われた。 無断欠勤や、廃ビル内の銃器類が問題にならず、殉職扱いになっているのは 笛吹さんが手を回したからだろう。 お葬式には、大勢の人が来ていた。 捜査一課の刑事さんだけじゃなく、警察学校の同期生や所轄時代の同僚。 中学や高校のクラスメイトだったという人達。 大学時代にアルバイトをしていた日本料理店の板前さん。 …それから。 お母さんに連れられた睦月ちゃんが、小さな手で百合の花を供えている。 数日前、ニュ−スを見たといって連絡をくれたので、私から今日のことを知らせたのだ。 泣いた跡の見える横顔に、ふと思い出す。 “狸屋事件”で、笹塚さんが睦月ちゃんに話していた言葉を。 『大人になった君が、それでもなお復讐する事でしか幸せになれない哀れな人間なら。 その時は、迷わず殺(や)ればいい』 ぞくり、とした。あの時、聞いていた筈なのに、深く考えもしなかった。 あれは、笹塚さん自身のことを言っていたのかもしれないと…。 弔問を終えた睦月ちゃんが、こっちに近づいてくる。 思わず身構える私を、大きな眸が心配そうに見上げていた。 「たんていさん…、だいじょうぶ?」 「うん…。来てくれて、ありがとうね」 曖昧に頷いて、笑おうとしたけど上手くいかない。 物言いたげだった睦月ちゃんは、そのままお母さんと一緒に帰っていった。 ホッとする私は、卑怯だ。 『どうして?なんで、けいじさんが…!?』 尋ねられても、何一つ答えられないくせに。 何のために、私はここに居るんだろう…? 「……桂木探偵。笛吹警視がお呼びです」 頭上から声を掛けられた時も、私は途方に暮れたように顔を上げるしかなかった。 黒いス−ツをビシッと着て、黒いネクタイをキッチリ締めて、一筋の乱れも無く髪を後ろに 撫で付けている筑紫さん。 けれど、見上げた黒い眸は、私と同じように途方に暮れた色を浮かべている。 それに気づいてホッとした私は、やっぱり卑怯だと思った。 * * * 「一見、死にに行く覚悟をした人間の部屋には、見えなかったそうだ」 葬儀場の控室で笛吹さんが言った時、ほんの少し息をするのが楽になった気がした。 そして、わかった。親族でも同僚でもないのに、何時までもこの場に留まっていた理由。 私は確かめたかったんだ。 笹塚さんの死は、何かの手違いか、“シックス”の策略だったのだと。 最初から死ぬつもりで、私達の前から姿を消したわけではないのだと。 けれど、他人の言動に敏感になっていた私は、意図的な言葉に気づいてしまう。 口から出た声は、ぎこちない棒読みになった。 「……“一見”…?」 笛吹さんは片手でメガネを直すと、苦々しい表情を浮かべる。 相変わらず、服装にも髪型にも少しの乱れも無い。 顔色に滲む深い疲労さえなければ、いつもどおりに見えた。 「新聞は約3ヶ月分、回収にも出さず床に放り出したまま。 クリ−ニングから帰って来た背広もワイシャツも、ソファ−の背凭れに掛けたまま。 台所には酒瓶の山。いたるところにある灰皿は、吸殻が雪崩を起こす寸前だったそうだ。 ……まったく、最後の最後まで、だらしのない奴だ」 遺族の居ない笹塚さんの遺品の整理は、警察が業者に依頼した。 何か目ぼしいものがあれば、笛吹さんに報告がある筈だった。 けれど仕事を終えた業者は、リストを手に困惑した顔で言ってきたのだそうだ。 何も、なかったと。 日記やアルバム、写真、手紙、葉書の類はおろか、賞状や証書、アドレス帳、記念品。 それに類するメモの類まで。 部屋の住人と関わりのある、誰かを特定するもの。 部屋の住人の過去に繋がるもの。思い出になるもの。 そんなものは何一つ。 テ−ブルに放置された携帯さえ、デ−タは完全に消去されていたそうだ。 『長いこと、この仕事をやってますが…。ここまで徹底したケ−スは初めてです。 ここの住人は最初から、何時死んでも構わないようにして暮らしてたんでしょう』 伝え聞いた言葉に、私は俯くことしか出来なかった。 知らない筈なのに、見て来たように思い浮かべられる。 煙草のヤニで汚れた壁と天井。最低限の家具の上に積もった埃。 あちこちに散乱したゴミだけが、ここで誰かが生活していたことを語っている。 誰とも特定できない、“誰か”が。 膝の上で、ぎゅっと手を握り締めた。 スカ−トのポケットに入れた携帯が、やけに重く感じられる。 釣りに行った日から、たった1週間。最後に皆で撮った写真だって、呼び出せるのに。 笹塚さんにとって大切なものは全部、10年前に失われてしまったんだ。 身の回りに残ったのは、いつ、どうなってもいいようなものばかり。 それは、私達だって例外じゃないと、言われているようだ。 笹塚さんを喪って悲しんでも、何も出来なかったことを悔やんでも、苦しんでも。 どうでもいい人間ばかりだと…。 寒々しい部屋を打ち消したくて、両目を瞑る。 ……違う、違う違う!! 私達は新聞紙や空き瓶や煙草の吸殻じゃない。 笹塚さんは、そんな人じゃない。 笛吹さんや、筑紫さん、石垣さん、等々力さん、それに捜査一課の人達を。 笹塚さんを仲間だと、友人だと、大切な人だと思う人達を。 どうでもいいなんて、そんな筈ない…!! 否定する端から湧き上がる、疑問と不安。 ……なら、どうして? 笛吹さんと筑紫さんが、憔悴し切った顔色を厳しさに押し隠しているの? あの石垣さんが、ふざけることもなく、押し黙ったままでいるの? 等々力さんが、ずっと泣き続けているの? 棺の前で、肩を震わせていた声が、耳について離れない。 『どうしてですか、先輩!? ……どうして、こんな…!!』 きつく、唇を噛んだ。 信じたいと思った。信じなければと、思った。 もう、何も言うことの出来ない笹塚さんのためにも。 けど、本当は自信が無い。 私がわかったつもりでいたのは、笹塚さんのほんの一部だけ。 自分に都合のいい、“親切な刑事さん”の顔だけだったと、思い知ってしまったから…。 黙ったままの私に、笛吹さんは言った。 いつものように厳しく、いつもより重々しい声で。 「……奴は、最初から決めていた。だから、お前が何かを気にする必要はない。 話は、それだけだ」 上司として、友人として。喪主を務める笛吹さんは、出棺に立ち会うために葬儀場に戻る。 私は頭を下げて、小柄な後ろ姿を見送った。 その後を影の様に従う、大柄な後ろ姿も。 私は、言って欲しかっただけなのかもしれない。 私の所為じゃない。私が気づけなかったから、止められなかったんじゃない。 10年来の友人だった笛吹さんや筑紫さんでさえ、気づいていても止められなかったのだから たかが“知り合い”の私に、何か出来た筈がない。 それでも、潰れるような胸の重さは消えてくれない。 張りつめた神経が、僅かな手掛かりを、気配を、逃すまいとする。 不思議なほど冴えた頭が、小さな欠片を繋ぎ合わせ、組み立てようとする。 もう、この世にいない人を。 出棺を告げる警笛は、長く鋭く。 くすんだ空に、どこまでも高く響いた。 * * * あの日からずっと泣けずにいた私は、その後の数日で今までの16年分より大量の涙を 流したと思う。 そして、“シックス”に絡む事件は終わり、魔人・脳噛ネウロは地上を去った。 私達人間に、究極の“謎”を生み出す未来を託して。 ……あれから、3年。 私は今も“探偵”を名乗っている。 − 2 − 照りつける太陽が、足元に黒々と影を描く。 暑い。とにかく暑い。南米だから、当たり前だけど。 ここは、噴水と建築中の教会で有名な街だそうだ。都会という程じゃないけど、活気がある。 トラックに乗せてくれた運転手さんに手を降って、さてとバッグを肩に掛けた。 お膳立てを頼んだ吾代さんからは、 『あぁ!?日系マフィアの大ボスに会いたいだぁ!! 探偵、俺を何だと……いや、待てよ。 よし、ちょっと待ってろ!!』 と、返事があったきりだ。 あの人も、一応は副社長だし。それなりに忙しい身だから、催促はしないでおく。 まずは宿を見つけて腹ごしらえだ。 中の上程度のホテルに部屋をとって、地元の人が良く行くレストランを教えてもらった。 名物の鶏肉のチョコレ−ト煮と、あとはメニュ−を上から下まで一通り。 お次は、屋台で買ったヤギ肉のサンドイッチ。 街の真ん中にある広場で、立派な噴水を眺めながら食べると一層美味しい。 強い日差しに水しぶきがキラキラして、彫刻された天使達が笑ってるみたいだ。 デザ−トには、女の子が売りに来た果物をバスケットごと買い占める。 ナイフで皮を剥いてカットしてくれるのを、次から次へと頬張った。これで腹六分目かな。 建築中の教会は、完成まで50年以上かかるらしい。 カトリックの国では、教会はどこも豪華なものだけど、完成すれば凄いだろうな。 中はミサの真っ最中で、ゆっくり見学は無理っぽい。 もう少し地元密着型の教会を捜そうと、十字架を掲げた尖塔を目指して歩けば じきに白亜の建物が現れた。“聖マレ−ナ教会”だ。 信者じゃないから、ちょっと憚られるんだけど、観光客のフリをして中に入る。 注意深く見回せば、信者用の指定席らしきベンチに“ナツメ・ファミリア”のプレ−トが 張られてあった。飾られているマリア像も、ファミリアからの寄贈品らしい。 じっと見上げていると、年配の神父さんがニコニコと近づいてくる。 親切そうだけど、いきなりマフィアについて尋ねると、警戒されるだろうなぁ…。 これ以上の情報収集は諦めて、献金箱にコインを1枚入れて外に出た。 教会の裏手にある、白い石畳の坂道を登ったのは、何となくだ。 裸足の子供達が、走り回って遊んでいる横を通り過ぎる。 白壁に挟まれた古びた歩道が、やがて真新しい舗装に変わった。 大通りから外れた道なのに珍しい。歩きやすくて助かるけれど。 やがて小高い丘の上に辿り着いた私は、そこでもマリア像を見た。 西の端の一段高くなった場所に佇むそれは、風雨に晒され古びてはいたけれど、 さっきの教会にあったのと表情もポ−ズも同じだ。 静かな微笑を浮かべて、見下ろしている。 かつては敬虔な信者だったのだろう、無数の白い十字架を。 ここは、墓地だ。 芝生の濃い緑。敷地をぐるりと囲む色とりどりの花。 ブ−ゲンビリアの茂みの上を、白い蝶が舞っている。 人の手とお金を掛けて、きちんと手入れされた場所。 興味を持った私は、中に入った。 いくつかの碑文を読んで、ここが日系人の墓地だと気づいた。 教会のベンチ同様、かなりの数が“ナツメ・ファミリア”の指定席みたいだ。 思わぬ発見に、一つ一つを確認していく。 一番大きくて、立派で、そう古くないお墓に刻まれた名は、エンゾ−・ナツメ。 『偉大なるファミリアの父』 ここに来る前、メ−ルで受け取った資料を思い出した。 この人が7年前に亡くなったというナツメ・ファミリアの初代だ。 移民としてこの国に渡り、激しい抗争を生き抜いて、一代でファミリアを築いた人物。 きっと、家族や同じ日系移民を守るという、強い“想い”を持っていた筈だ。 話してみたかったな…と、残念に思う。 周りに並んだ古びたお墓は、名前と年代からみて多分、この人の奥さんと子供だろう。 一番新しそうなのは、お孫さんかな…? 私は碑文に目を向けた。 『エイシ・ササヅカ』 バッグが、肩から滑り落ちる音。 刻まれた没年は、3年前。 萎れかけた白い花束が、まだ甘い香りを放っている。 『ナツメ・ファミリアの友』 あの人のイメ−ジからは程遠い、眩しいほど白い十字架。 御影石のお墓が目に浮かんだ。 日本を離れる前に、いつものように挨拶に行った。 相変わらず、煙草とブラックの缶コ−ヒ−と焼酎が幾つも供えられていて。 花立もいっぱいだから、排石の上に花束を置いた。同じように、白い花を…。 そろそろと、伸ばした指先が十字架に触れようとした、その時。 「誰!?」 背後から、きつい声が飛んだ。 「その墓に、何の用!?」 ポルトガル訛のあるスペイン語。振り向いた先には、金髪の女の人が立っていた。 30歳ぐらいのグラマ−美人。 碧の眸で、私を頭の天辺から爪先まで眺めると、訝しげに眉を寄せる。 「日本人?」 黒いワンピ−スに、抱いた白い花束が映えている。 気圧されたまま、こくりと頷く私に彼女は難しい顔で唇を開いた。 「その墓ヲ、何か用であルノカ?」 「……は?」 赤く縁取られた唇から飛び出したヘンテコな日本語に、目が点になる。 女の人は、ますます顔を顰めて繰り返した。 「日本人ノ、娘。その墓ヲ用あルノカと聞いタ」 「えと、その、私は……」 日本語で答えかけて、はたと我に返る。 慌てて頭をスペイン語に切り替えた。 「勝手に入り込んでしまって、すみませんでした。 あの、このお墓、もしかしたら私の知っている人のものじゃないかと思って…」 言い終わる前に、カッと碧の両眼が見開かれる。 その鋭さに、またもやたじろいだ。 「ヤコ・カツラギ!?」 「あ……、はい」 突然名前を呼ばれれば、普通に頷くしかない。 一応は有名人だから、日本以外でもこういうことは偶にある。あるのだけれど…。 バサッ 両腕から花束が滑り落ち、足元に散った。 それよりも驚いたのは、碧の眸から猛烈な勢いで溢れ出した涙だ。 目尻を伝った水滴が、キラキラと宙を舞う。 何故なら彼女は、もの凄い勢いでコッチに駆け寄って来るからだ。 逃げる間もあらばこそ、両手をがっしと掴まれる。 「今朝、日本から連絡があったと聞いて…。 やっと、来てくれた。ずっと、ずっと待っていた…!!」 唖然とする私の前で、女の人は人目も憚らず、わんわん泣き出した。 その声に、幾つもの泣き声がコ−ラスを加える。 彼女の後ろにくっついていた、子供達だ。 上は10歳ぐらいの男の子から、下は5〜6歳の男の子。間に8歳ぐらいの双子の女の子を 含めた計4人。髪と眸の色は様々だけど、どこかしら彼女に似ている。 更にその背後からは、いつの間にか強面のお兄さん達がジリジリと包囲の輪を狭めていた。 黒いス−ツの懐に突っ込まれた手は、絶対に拳銃を握ってる。 大人に泣かれ、子供に泣かれ、怖そうなお兄さん達に思いっきり敵意を向けられて。 焼けつくような太陽の下で、私は冷や汗を掻きながら女の人を見つめた。 金髪から覗く耳に、薔薇の形のピアスが銀色に光る。 それが、ナツメ・ファミリア2代目夫人、エマさんとの初対面だった。 − 3 − 笹塚さんと初めて会った時の印象は、それほど強くはなかった。 何しろ、お父さんが死んだと…殺されたのだと、知った直後だったから。 随分と、くたびれた感じの人だなぁと思った…ような、気がする。 その後は、天井から鳥の頭をした魔人が現れるわ、殺人事件に遭遇するわ、 勝手に“探偵”にされるわで、目まぐるしいばかりの極彩色の毎日。 そんな中、気づけば当たり前のように事件現場で顔を合わせ、事務所で調書を 取られる日々が続いた。 灰色のような、不透明なような、煙草の煙のような。 捉えどころがないのに、気がつけばそこに居る。不思議な人だなぁと思っていた。 けれどその内、笹塚さんの家族の事件を知って。怪盗“X(サイ)”との因縁も絡んで。 いつか、ちゃんと話をしたいと思っていた。 いつかは、話が出来ると思っていた。 もっと親しくなれたら。“探偵”として認められたら。私が大人になったら…。 そんな日常に、慣れてしまっていた。 笹塚さんの最後の印象は、余りにも強烈だった。 初めて魔人に会った時よりも。 初めて“X(サイ)”に、“シックス”に会った時よりも。 静かな微笑みが、私の中に焼きついて。 忘れない。忘れるわけには、いかない。 私が今も“探偵”を続けていられるのは、ネウロとの約束だけじゃない。 アヤさんの励ましや、吾代さんのマネ−ジメントや、あかねちゃんのサポ−トの おかげだけじゃない。 今の私を支えるのは、多分、恐怖だ。 あの時の痛みに、もう一度耐えることなんて出来はしない。 だから、追いかけ続ける。 だから、問いかけ続ける。 わからなくても、答えがなくても。 わかりたいと思うことを、諦めない。 踏み込んで傷つけてしまうことよりも、自分が傷つくことよりも。 踏み込めなかった後悔だけは、二度と繰り返さないと自分に誓った。 ……だから…。 『ケガだけはすんなよ、弥子ちゃん』 ポンと、軽く肩を叩かれて視線を上げる。 煙草の匂いを残して、通り過ぎる横顔。 細められた目元と、上がった唇の端。奇妙な、違和感。 ……気がついて、私…!! 心の中で、叫ぶ。 笹塚さんが自分から、こんな風に親し気に私に触れたことがあった? 笹塚さんが笑うなんてことがあった? 今すぐ追いかけて、呼び止めて、尋ねて。 『一体、何があったんですか!?何をしようとしているんですか!? 教えてください、話してください!!』 くたびれたス−ツ、斜めに傾いた首。 前屈み気味の、見慣れた背中に叫ぶ。 『どうして、1人で行っちゃうんですか…!?』 走って、追いかける。 手を伸ばす。 『警察も、ネウロも、私も、そんなに信用できなかったの? 自分だけで復讐を成し遂げることに、意味があったの? 誰も危険に巻き込みたくなかったの…?』 けれど笹塚さんは、どんどん遠くへ行ってしまう。 背を、向けたままで。 『まって、笹塚さん!!』 何の躊躇いもなく、行ってしまわないで。 せめて、こっちを振り返って。 泣きながら、叫びながら、走りながら。小さくなって、消えていく背中に手を伸ばした。 届かないとわかっていても、それでも…。 『“独り”にならないで…!!』 * * * どたあぁんッ!!! あイタたぁ…。ベッドから転げ落ちた私は、やっと目を覚ました。 外国のは高さがあって、落っこちるとマジで痛いんだよね…。 また、夢か。偶に見るけど、最近は色々とパタ−ンが増えたな、と思う。 大抵は過去にあった通りを見せつけられるだけで、どっぷり落ち込むことが多いけど、 珍しく追いかけるところまで出来た。ここまで来たからかも、しれない。 両親と妹さんを殺されてから、1年近く消息不明だったという笹塚さん。 彼が、その約半分を過ごした場所。 数日前に関わった事件で、偶然それを知った私には、ここに来る以外の選択肢は無かった。 ぐし、と。パジャマ代わりのTシャツの袖で、涙を拭って立ち上がる。 一流ホテルのスイ−トル−ムかと見紛う“ここ”は、ナツメ・ファミリア邸の客室だ。 墓地での出会いの後、あれよあれよという間に、連れてこられてしまった。 宿のキャンセルも、置いていた荷物も、エマさんの一言で片付いてしまう。 その手際良さといったら、ほぼ“拉致監禁”だったりするから、髪の毛の中のあかねちゃんが 目を覚まして、しきりに心配してくれていた。 でも、着いてみれば下にも置かない大歓迎ぶりだったから、今はリラックスしてお休みモ−ド。 ネウロが残した魔界電池があるとはいえ、予定より長く事務所を離れてるし、あかねちゃんも 疲れてるんだよね。 昨日の夜は、何日も強い日差しに晒されていた髪を、ちゃんと手入れしてあげた。 大きなバスタブのあるお風呂も、久しぶりだったし。 『ごめんね、ここまでつき合わせちゃって』 念入りにトリ−トメントしながら言ったら、湯気で曇った鏡に毛先で書いていたっけ。 いつものように綺麗な字で。 『探偵さんは』 そのまま止まってしまって不思議に思っていると、書き直された。 『 うん、そうだね。ありがとう、あかねちゃん…。 ……まあ、とにかく。ナツメ・ファミリア邸は、まさに“お屋敷でござい!!”な豪華さだ。 少し前に改築したとかで、ピカピカに新しい。そして、あちこち色々とヘンだった。 ギリシャやロ−マの遺跡みたいな白い柱がずらっと並んでて。角を曲がると真っ赤な鳥居。 英国風庭園の一角が、唐突に枯山水もどきだったり。 白磁器の壺に、盆栽的なものが植えられていたり。 外国にありがちな、“なんちゃって日本”なんだよね。 出される食事も、予想に違わぬ“なんちゃって日本食”なワケで。 量があったのは助かったけど、味の方は…まぁ…微妙…? そんなこんなで、思い出した。 今日は、泊めてもらったお礼に、日本の家庭料理を作る約束だったのだ。 顔を洗って着替えると、カバンからマイエプロンを取り出した。 それから旅には欠かせないマイ醤油とマイ七味、マイ柚子コショウ、マイウスターソースetc。 最近は飛行機への持ち込み制限が厳しくて、苦労するけどね。 さあて、異文化コミュニケ−ションは、まず“食”から!! 腕まくりをして部屋を出かけ、忘れ物に気づく。 携帯には、日本から2件のメ−ルが届いていた。 1件目は、ナツメ・ファミリア2代目のパパ・トガシと話がついたという吾代さんからの連絡。 今、そのお屋敷に泊まってるって返信したら、驚くだろうなぁ。 2件目は、ヒグチさんからだ。 ナツメ・ファミリアの歴史と今の状況について調べてくれるように頼んでた、その第2報。 ファミリアと笹塚さんの関係について、わかる記録があるかどうかを含めての返事。 こういうのは、吾代さんよりヒグチさんの方が頼りになるんだよね。 世界中のネットで検索して、プログラムで翻訳して、パパッと情報を纏め上げちゃうんだから。 メールを開くと同時に、部屋のドアを閉めた。 − 4 − 『ナツメ・ファミリアは十数年前まで、ごく小さなナワバリを持つ中堅勢力の一つに 過ぎなかったらしい。 それが、国でも一、二を争う組織になったのは、13年前に初の日系人大統領として ロドリゲス・フジカワが就任してからだ。 日系人のコミュニティ−として、ファミリアはフジカワ政権に協力を惜しまず、選挙公約の 麻薬撲滅キャンペ−ンに乗じてライバル組織を叩き潰し、一気にのし上がった。 2期を務めた大統領が退陣した後も、その勢力は衰えていない。 外食や流通・販売関係の合法的な会社運営は、どれも国内で5指に入るシェアを持つ。 スラム街の子供達に対する教育とかの福祉事業でも知られている。 現在は、表の顔を前面に出しているが、所謂“日系マフィア”の顔も健在だ。 先代からの方針で麻薬には手を出さないものの、南米一帯と日本を中心としたアジアに 武器密売のル−トを持ち、それを使って敵勢力を排除することを躊躇わない。 まさに南米版の“ゴッド・ファ−ザ−”といったところだな。 ……実は俺、“ゴッド・ファ−ザ−”って見たことね−んだけどさ』 ヒグチさんからのメールを読みながら、昨日案内された厨房へ向かう。 廊下で時々すれ違うのは、ビシッとス−ツを着た強面のお兄さんばかりだ。 皆、私を見ると斜め45度で頭を下げてくる。 『あと、そっちの国の警察のデ−タにハッキングしたけど、笹塚さんとの関連は特に何も 見つからなかった。他で当たっても、出たのは13年前の入国と出国の記録だけな。 まあ、それで良かったのか悪かったのかは、俺にはわかんね−けども』 もしもし、ヒグチさん? ハッキングは犯罪だってのに、わざわざそこまでして調べてくれなくても…。(汗) 相変わらず子供っぽいところのある特例刑事さんの顔を思い出した。 日本でもコンピュ−タ犯罪は増える一方で、相当忙しい筈なのに時間を割いてくれて。 ありがたいことはありがたいんですけども、サボる口実にされた気が、しないでもない。 『どっちにしても、気をつけろよ桂木。止めてもどうせ聞かね−から、別に止めね−けどさ。 俺、この若さで墓参り先が増える一方になるのはヤだし。 こっちに帰ったら、また一緒にメシ食おうぜ。ただし、食った分は自分持ちな』 最後の何行かに、思わず笑う。いかにもヒグチさんらしい気遣いと用心深さだ。 急いでお礼と、行きたいお店候補のリストを20程並べた返信を打つ。 送信ボタンを押したところで、携帯が待ち受け画面に切り替わった。 昨日食べた鶏肉のチョコレ−ト煮の画像。帰る前に、また食べたいなぁ〜。 ひとしきりウットリして、画面を切り替えた。しばらく眺めて、パチンと閉じる。 到着した厨房には、頼んでおいた食材が山積みになっていた。 * * * マフィアの食卓というと、ど−んと長いテ−ブルに怖そうなオジサン達がずらっと並んで 豪華な燭台にロウソクを立ててるイメ−ジだけど、ナツメ家の食卓は10人程度の規模だ。 人を大勢招いた時用のダイニング・ル−ムもあるけれど、普段は小じんまりした部屋を使い 家族だけで食事するらしい。 小じんまりっていっても、日本人感覚でいえば、十分以上に広くて豪華だけどね。 さて、真っ白なテ−ブルクロスが掛けられ、極彩色の花が飾られた食卓は、日本の味で 埋め尽くされている。 肉じゃがにコロッケ、玉子焼き、トンカツ、茶碗蒸し、炊き込みご飯etc。 ジャパニ−ズ・フ−ドは、スシ・テンプラ・スキヤ〜キだけじゃないのだよ。 どこの国に持って行っても、まずハズさない家庭料理の偉大さよ。 子供の口に合うように、味付けも甘めにしておいた。 “同じ釜の飯を喰った仲”って言うけど、一緒に食事をするのって、最高のコミュニケ−ション 手段なんだよね。世界中で思ったことを、再確認。 昨日までは、“ママを泣かせた悪いヤツ”認識で私を睨んでいた子供達が、すっかり懐いて くれたもん。 兄弟でも、やっぱり好みは違っているらしく、長男のエンゾ−君はコロッケが気に入った様子。 黒い髪と眸で、しっかりしたラテン系の顔立ちだ。 双子のカヨちゃんとマグダレ−ナちゃんは玉子焼きを取り合っている。 どっちも金髪で碧の目で、お母さんそっくりのお人形さんみたい。 大人しいエンリケ君は、上手にお箸を使って肉じゃがをつついていた。 髪も眸も茶色いけれど、一番馴染みがあるというか、いわゆる日系の“しょう油顔”だ。 最後に、今日初めて会った末っ子の男の子。まだ3歳ぐらいかな。 昨日は少し風邪気味で、ずっと部屋にいたらしい。 好奇心旺盛らしく、初対面の私にも物怖じしない金茶色の目を向けてくる。 ラテン系と日系のイイトコ取りをしたような綺麗な顔立ちで、ふわふわの癖毛。 お兄ちゃんとお姉ちゃん達にも可愛がられているようで、あれこれ世話を焼かれていた。 食事の席で一番使われていた言葉は、料理を指差しての“これなあに”と、それから。 末っ子君の名前の“エイシ”だったと思う。 ニコニコ笑う、ご飯粒を顔中にくっつけた顔に、小さな手があちこちから伸びた。 * * * 食事が済むと、子供達に誘われるまま、いっしょに遊んだ。 木や草花が植えられた庭は、木陰が多くて池もあって、午後の暑さも少しだけ楽だ。 ゴム飛びに缶蹴り、かごめかごめ、だるまさんが転んだetc。 ここでも、日本伝統の遊びが大活躍だ。 この国に元々あったものや、日系人が持ち込んで変化したものや、似たような遊びを 取り混ぜてル−ルを変えてみたりもする。 駆け回って笑い転げて、くたびれ切った子供達がお昼寝タイムに入ったところで、 エマさんからお茶に誘われた。 マフィアのボス夫人っていうのは、けっこう多忙らしい。 昨日も今日も、食事の時間以外は、ずっとどこかに出かけるか人に会っていたようだ。 スラム街の学校の視察とか、隣町で開店する店のオ−プン式とか、教会を修復するための チャリティ−イベントの相談とか、何かのお願いに来た人の相手とか。 昨日の出会いから、ゆっくり話をする時間を持てたのは初めてだ。 風の良く通るテラスに置かれたテ−ブルには、コ−ヒ−のセットと、山盛りの揚げ菓子や チョコレ−トケ−キが準備されている。 ちょうどお腹が空いていたんで、ありがたくいただいた。 こってりと、くどいくらいに甘いんだけど、これが濃い目のコ−ヒ−に合うんだよね。 白いス−ツ姿のエマさんは、コ−ヒ−だけを飲みながら、13年前のことを話してくれた。 聖マレ−ナ教会の裏にある墓地…昨日のあの場所…で、笹塚さんと出会ったこと。 初代のパパ・エンゾ−…エマさんの祖父にあたる…に気に入られ、滞在するようになったこと。 彼がここで射撃や戦闘の訓練を受けていたこと。 その教官役が、当時はエマさんの求婚者だった現在のパパ・トガシだったこと。 ナツメ・ファミリア存亡の危機に関わったこと。 3年前、笹塚さんがファミリアを通して大量の銃火器類を購入したこと…。 エマさんの話は、そこで終わった。 おかしいな、と思う。昨日、私を見て、あんなに取り乱した理由の説明がない。 どうして、私を…日本から来る“誰か”を…『ずっと待っていた』のか。 多分、続きはパパ・トガシが帰って来てからなのだろう。 自分を納得させて、私も話し始めた。 もちろん、魔人のこととか端折らざるを得ないことは沢山あったけど。 3年前、お父さんが殺された事件で、被害者の娘と担当刑事として知り合ったこと。 犯人が上司だったのに責任を感じて、探偵を始めた私にずっと協力してくれたこと。 “X(サイ)”や“シックス”の事件に関わっていったこと。 そして、笹塚さんの最後に立ち合ったこと…。 泣いたり取り乱したりせずに、ちゃんと話をすることが出来たと思う。 エマさんも、ずっと白いハンカチを握り締めていたけれど、それを使うことは無かった。 けれど、話し終えた時には私は酷く疲れていて、少し休ませてもらうことにした。 朝から大量の料理を作った後で、ちびっ子5人と全力で遊ぶのは、さすがに堪えたみたい。 「客室は遠いから、このソファ−を使うといいわ。 つらいことを話してくれて、ありがとう」 案内してくれたエマさんは、ソファ−に横になった私を見つめた。 透明で、どこか鋭く張りつめた雰囲気が、アヤさんを思い出させる。 良く通る、凛とした声も。 「ヤコ、あなたは…」 「……はい?」 途切れた言葉を不思議に思い、エマさんを見上げた。 碧の眸が、物言いた気に揺れている。 「……トガシも、夕食までに帰ってくるから。話の続きはまた、その時に。 すぐに、毛布を持って来るわね」 立ち上がって部屋を出ていくエマさんを、ぼんやりと見送った。 今、何を言いかけたんだろう…?疲れてて、考えがまとまらない。 そのまま視線をずらせると、ソファ−の枠の目立たないところに小さなロゴを見つけた。 『TOLE IKEYA』 ああ、外道家具職人の池谷さんか。どおりで寝心地がいいと思った。 ベランダの椅子とテ−ブルも、あの人の作品だろう。 外道ぶりとは裏腹に、ホントに世界的な人気デザイナ−なんだなぁ…。 ぼんやりと、思う。 そういえば今、由香さんの家で同居してるんだっけ。 広すぎて部屋が余ってるからシェアしてるだけとか言ってるけど、由香さんもまんざらじゃ なさそうだったしなぁ…。 座らせるのだけは死んでも御免って言い張ってるけど、最近、会う度に綺麗になってて。 いいなぁって言ったら、呆れてた。 『あんた程の有名人なら、言い寄ってくる男くらい、掃いて捨てるほどいるだろうに。 ウチの同居人みたいなクサレ外道じゃなくて、もうちょっとマトモな…。 ……あ、ごめん』 そこで謝られると、そんなにモテないのかって納得されたようで傷つくなぁ…。 実際、モテませんけど。 『そうじゃなくて、あんたは…。 ……や、いいから。今のは忘れて』 ……あれ? 由香さん…、さっきのエマさんと同…じ…… そのまま眠ってしまった私は、エマさんが毛布を持って戻ってきたことにも気づかなかった。 − 5 − メキィ メキメキ メリリッ 骨が軋む音。 グニュリ グニニ グググッ 筋肉が膨張し、皮膚がうねる音。 それらが止むと、懐かしい姿がそこにあった。 くたびれたス−ツも、だらしなく緩んだネクタイも。 目に焼きついた、静かな微笑みさえそのままに。 『弥子ちゃん』 ずるい、と私は呟いた。 ずるいよ、こんなの……。“そのもの”じゃん。 『悪かったな。俺のせいで、つらい思いさせちまって。 でも…、俺自身は何も後悔してないよ』 抑揚の無い口調も、頬に触れる掌の冷たさも…。 怪物強盗が最後に“なった”のは、こんなにも笹塚さんだ。 笹塚さん“そのもの”だ。 ……今、尋ねればいいのかもしれない。 私は、思った。 ……今なら、答えてくれるかもしれない。 欲しかった言葉をくれる、“この”笹塚さんなら。 『会えて良かった…。ありがとう』 けれど、ふわりと頭を撫でられて、私は泣くことしかできなかった。 涙と鼻水を皺だらけのワイシャツに押し付けて、こぼれそうになる言葉を飲み込んだ。 『どうして、何も言わずに1人で行っちゃったの? 何も残さず、誰にも知られずに逝ってしまうつもりだったの? 本当に、それで良かったの…?』 こんなにも優しい人が、私達をどうでもいいもののように捨てて行く筈がない。 絶対に、そんな筈はない。 ……それを知っていて、これ以上、何を尋ねることがあるの…? もう、自分でわかっていた。 ここに居る“笹塚さん”が本物であろうとなかろうと。 彼が何を答えてくれようと、私は納得できないのだと。 言葉は手段の一つでしかなくて、強すぎる“想い”を表すには足りなさ過ぎる。 だから人は歌ったり、描いたり、作ったり、壊したりする。 自白が証拠にならないように、言葉だけで人の心を理解することはできない。 “謎”を解きたいのなら、自分で探すしかない。 彼が残したものと残さなかったものの全てから、私自身を納得させる動かぬ証拠を。 でも、今は。今だけは…。 『笹塚さん…、笹塚さん…ッ!!』 低い体温と煙草の匂いを、少しでも感じていたくて。 くたびれたス−ツの背中に、私は精一杯両手を伸ばして、しがみついた… * * * どたあぁんッ!!! ……また、落っこちるし…。 ソファ−だから高さは無いけど、それなりに痛い。 腰を擦りながら起き上がろうとして、向かいに座っている人にやっと気づいた。 熊みたいに大きくてガッチリとした、強面の男の人。 苦笑を浮かべて椅子から立ち上がり、手を差し延べてくれる。 私を見る目は鋭いけれど、殺気も悪意も感じない。 人ん家のソファ−で昼寝して、寝惚けて転がり落ちるという、探偵にあるまじき失態に 呆れてるだけかもしれないけれど。 「お嬢さん、お待たせした。俺がトガシだ」 引っ張り上げられた手が、そのまま力強い握手になる。 ごつごつして、手の平と指のあちこちが硬くなった、銃を持つ人の手。 ナツメ・ファミリアの2代目ボス、パパ・トガシ。 つまりエマさんの旦那さんで、子供達のお父さんで、笹塚さんの教官(せんせい)。 私は慌てて居ずまいを正した。 「はじめまして。お招きいただいて、ありがとうございます。 私は日本の探偵で、ヤコ・カツラ…」 ぎぃゆるるるるるぅ〜 ぐぐぅ〜 挨拶の言葉は、盛大な腹の虫に邪魔された。 それもその筈、そろそろ夕食時だ。窓の外も、どっぷりと日が暮れている。 「話は、食事の後にしようか」 明らかに肩を震わせているパパ・トガシに、私はがっくりと項垂れた。 穴があったら入りたいと思ったのは、これで一体何度目か。 まったく、この腹の虫め…!! − 6 − 久しぶりにパパが揃った食卓では、子供達が大はしゃぎしていた。 口々に、今日食べた日本の料理や遊びの話をして、関心を引こうと必死になっている。 パパ・トガシは、笑って頷きながら順に話を聞いていた。 それでも、ケンカやわがままな振る舞いがあれば一瞬で怖い顔になり、厳しく叱る。 子供達はしゅんとうなだれ、素直に言うことを聞く。 今の日本ではまず見られない、家長制度ぶりだ。 けれど、そんなパパ・トガシにも末っ子は特別らしい。 ご飯が済むと、パパの膝の上を独り占めしてウトウトしている。 エマさんから聞いた話で、この子に“エイシ”と名付けた理由は理解できた。 笹塚さんが居なければ、彼が2代目を継ぐことも、エマさんと結婚することもなかっただろう。 もちろん、この子も他の子供達も、生まれていなかった。 でも、“恩を感じてる”だけが理由じゃない筈だ。 近い肉親の名を受け継ぐのが伝統のこの国で、ほんの半年を過ごしただけの異邦人の名を 選んだ意味。十字架に刻まれていた言葉。 タコスを頬張りながら、ふわふわと揺れる金茶色の髪を眺める。 すっかり寝入っているエイシ君は、本当に満ち足りた幸せそうな顔をしていた。 * * * それぞれに船を漕ぎ出した子供達が、早々にベッドに追い立てられてから、 私は書斎に招かれた。 木の匂いのするクラシックな部屋では、パパ・トガシとエマさんが私を待っている。 2人とも、改まった様子だ。 促され、革張りのソファ−に座った私の前には、小さなダンボ−ルの箱が置かれていた。 「3年前、エイシから送られてきたものだ。 “商品”を届けに行った部下に、直接託して」 どくリ、と。心臓の音が大きく響いた。トガシさんの手が、蓋を開ける。 中には、ダンボ−ルより一回り小さな包みと、白い封筒。 宛名はスペイン語で“パパ・トガシへ”。目で促され、恐る恐る封筒を手に取った。 初めて読む笹塚さんのスペイン語の綴りは、日本語と同じように少し斜めに傾いていた。 『トガシ、エマ。 2人がこの手紙を読んでいるとしたら、俺は死んでいるだろう。 もし、生きていられたら、この国で子供達に日本語を教えて暮らすのも悪くないと 思っていたが、残念だ。 俺の名前をつけてくれる筈の子供の顔を見られなくて、すまない。 悪いが、送った荷物は燃やして欲しい。 最後まで手間をかける。 2人に会えたことを感謝している。ありがとう。 エイシ・ササヅカ』 笹塚さんだなぁ、と思った。 同じなのだ。あの時、怪物強盗が“なった”笹塚さんが言ったことと。 『会えて良かった…。ありがとう』 それに、ずっとわからなかったことの幾つかはハッキリした。 笹塚さんは、“シックス”を倒した後、生きることをちゃんと考えていた。 けれど、日本に留まるつもりはなかった。 この国に来るつもりだったんだ。私達の誰にも、何も言わずに…。 便箋に視線を落としたまま、一瞬、目を閉じる。 動かぬ証拠が示す現実は、受け入れなきゃならない。 私は“探偵”なんだから。 自分に都合のいいことだけを見ないと、決めたんだから。 成長して、進化して、先へ進むために。 手紙をテ−ブルに置いた私は、箱の中に入ったままの包みを見た。 それから視線を2人に戻すと、どちらも困った顔を浮かべている。 私が何か言うより先に、口を開いた。 「燃やそうとは、何度も思ったんだが…。出来なかった」 「私が止めたの。 それを見て、いつか誰かが来てくれるんじゃないかと思ったから」 「中を御覧になったんですか?」 思わず尋ねると、2人は気まずそうに顔を伏せた。 「「見るな、とは書いてなかったから…。」」 便箋の文章を思い返す。確かに、書いてなかったな。 意外な似たもの夫婦ぶりに苦笑してから、私は深く息を吸った。 笹塚さんは、2人が好奇心に負けても罪悪感を覚えないように、『見るな』とも『開けるな』とも 書かなかったんだろう。 単に、見られても困るものじゃなかっただけかもしれないけど。 それでも、『燃やして欲しい』と、ハッキリ書いてある。 中にあるのは間違いなく、笹塚さんのとてもプライベ−トなものだ。 何も残さないように生きていたあの人が、たった一つ、生きる可能性のある未来に運んだもの。 全てを終えて、もう一度生き直す。その傍らに置き続けようとしたもの。 私は、ずしりとした包みを手に取った。 縛っていた紐も外されていて、茶色の梱包用包装紙も簡単に剥がせる。 大きさと重さから、ある程度の予想はしていた。入っていたのは、アルバムだ。 分厚くて大きな、天鵞絨(ビロ−ド)張りの表紙の家族用の記念アルバム。 顔を上げ、2人が頷くのを確認して、私はゆっくりと表紙をめくった。 それは、どこにでもありそうな家族の記録だった。 ご両親の結婚式に始まり、笹塚さんと妹さんの生まれた時の写真。 それぞれの入園式に卒園式、入学式、卒業式、運動会、発表会。 子供時代の笹塚さんは、私が知っているより遥かに表情があったけど、それでも この年頃の子供にしては落ち着いているというか、かなりク−ルだ。 笹塚さんの大学合格祝いで、家族で酔いつぶれている姿もあった。 ……明らかに、笹塚さん自身と妹さんは未成年の筈だけど…。 笹塚家一番の酒豪は、お母さんだったらしい。 それから、家族旅行の写真。年に2〜3度は行ってたみたいだ。 本当に、仲の良い家族だったんだろう。 アルバムの残り頁が少なくなった辺りで、ふと手をとめた。 不自然な、写真1枚分の空きスペース。前後は同じ家族旅行。 唐突に、記憶が蘇った。 『怪盗“X”案件ファイル001 豊東区一家三人惨殺事件』 3年前に見た、捜査資料。観光名所の教会の前で撮られた、家族4人の写真。 ジャ−ナリストのお父さん。専業主婦のお母さん。高校生の妹さん。 そして大学生の笹塚さん。皆、笑っていた。 この先は、ない。 本当なら次の頁には、妹さんの誕生日での家族団らんの光景が並んだろう。 その次には、笹塚さんの国家T種合格や、大学卒業、警視庁への入庁祝。 その先には、妹さんの大学合格や、就職、結婚式の写真が続いたかもしれない。 けれど、真っ白なのだ。 笹塚さんにとっては、真っ黒だったのかもしれない。この先の時間は、永遠に。 それを確かめるために、頁を繰った。震える指先に、力を込めて…。 「……………!!」 息を呑む音が、した。 私を見つめる2人の視線を感じる。 けれど今は、顔を上げることも出来ない。 「…………、……ッ…」 ポタリと、水滴が落ちた。 写真を挟み込んだ透明なビニールシートの上に。 ポタポタと、その下にある幾つもの顔を滲ませて…。 どれもが、とても良く知っている顔。 胡散臭くも爽やかな、助手スマイルを浮かべたネウロ。 奴の手に頭を鷲掴みにされながらも、満面の笑顔で魚を頬張る私。 前列ど真ん中で、不機嫌そうな顔でコッチを睨みつけている、ずぶ濡れの笛吹さん。 真後ろの筑紫さんは、両手にタオルを持ったまま無表情にカメラ目線を向けている。 石垣さんと等々力さんは、上司2人を気にしながらも、互いにケンカ腰。 そんな全部をスル−して、首を斜めに傾けた、相変わらず疲れた顔の笹塚さん。 皆で、釣りに行った時の写真。 折角だからと言ったのは、思えば笹塚さんだった。 撮影したのは、映っていない本城さん。『私は部外者じゃから』と言って。 その場で全員に送られた写真は、今も私の携帯の待ち受け画面だ。 最近食べた、お気に入りフ−ドの画像の次に切り替わるようにしてある。 笛吹さんはプリントアウトして、職場の机に飾っていた。 何かのついでに警視正になったお祝いを言いに行き、うつ伏せのフォトフレ−ムを見つけた。 『勘違いするな、桂木弥子。私は、今も怒っているのだからな!! あの馬鹿な男にも、それを止められなかった己自身にも。 この怒りが消えない限り、私は警察官としてどれ程の権力を手にしたとしても けっして、道を誤ることはない。 だからこそ、私はあいつに怒り続けることを止めるわけにはいかないのだ』 私を玄関まで送ってくれた筑紫さんは、手帳に挟んだ写真を見せてくれた。 笛吹さんの下で、相変わらずフォロ−と気遣いの人だ。 『笹塚さんについて自分が話したことで、貴女にはつらい思いをさせてしまったと思います。 けれど、自分は思うのです。 笹塚さんが最後の1年間、僅かでも我々に歩み寄ってくれたのは、貴女のおかげだと。 それは、自分にとっては何物にも変えがたい、大切な記憶です。 口にはなさいませんが、笛吹さんも同じ筈です。 ……桂木探偵。貴女にも、そうであればと思います』 石垣さんに至っては、捜査一課の机にデコパージュ。巧みな切り貼りでツ−ショットを偽造。 その代わり、フィギュアその他の玩具類は一切無くなっていた。 『笹塚先輩はさ−、この俺を実力を見込んで、安心して後を託してくれたんだと 思っちゃったりするワケなんだよね−。 こぉ〜んなに可愛くて有能で真面目な部下、他にいないしさァ。 オンとオフとの切り替えも完璧。休日は趣味のフィギュアとゲ−ムとア二メでリフレッシュ。 常にハイテンション&ハイスキル。捜査一課の次期エ−スの呼び声も高く…』 そんな石垣さんと、今もコンビを組んでいる等々力さんには、よくお世話になっている。 写真は、自宅に飾っているそうだ。 『一体、どこらへんから出て来るんですか、その厚かましい発言は。 笹塚先輩のような“伝説の刑事”への道は、遠いんですからねッ!! ホラ、行きますよ石垣先輩!! ……桂木探偵、ご協力には“一応”感謝しますが、危ない真似はほどほどに願います。 後日、あらためて調書を取りに伺いますので、こちらからご連絡します』 もう、誰が誰だかわからないくらい濡れたアルバムを抱きしめた。 ごめんなさい、笹塚さん。 初めから、知っていた筈だったのに。こんなに簡単なことだったのに。 自分が信じられなくて、地球の裏側まで来ちゃったよ…。 『い−から、弥子ちゃん。 別に、気にしてね−よ』 カ−テンを揺らす風に、頭を撫でられた気がした。 やっと、わかった。 笹塚さんは、振り返ってくれていたのだと。 − 7 − 翌日、聖マレ−ナ教会の裏山にある墓地で、アルバムを燃やした。 やっと遺言を果たせたパパ・トガシは、肩の荷が降りたと言っていた。 エマさんは、ちょっと残念そうだったけど、仕方ないわと呟いた。 昨日の夜、しばらく泣いた後で、私は写真に写っている人達のことを話した。 笛吹さんのこと、筑紫さんのこと、石垣さんと等々力さんのこと。 ネウロのことは、まぁ適当に。写真に写っていない人達のことも、話した。 エマさんは、言っていた。 『いつか、写真の中の誰かが、ここに来てくれるんじゃないかと思っていた。 エイシの大事な“ファミリア”だろうから』 笹塚さんの名が刻まれたお墓は、棺が掘り返されている。 空っぽだった中に、灰を入れて埋めなおすそうだ。 私は足元にバッグを置いて、ゆっくりと燃えていくアルバムを見つめていた。 ふわりと、蝶が舞った。 今朝早くから、4人の子供達が集めてくれたのだ。 フェルトペンで十字架や太陽の記号やアルファベットを描かれた翅は、死んだ人の魂を 空に運ぶという。 「さようなら、俺の友達」 パパ・トガシが言った。大きな拳を握り締めて。 「さようなら、私の兄弟」 エマさんが言った。碧の眸に涙を溜めて。 薔薇の形の銀のピアスが、耳元で光った。 そして、私は…。 「さようなら、笹塚さん」 友達、ではなかった。 いつも心配してくれて、見守ってくれて、助けてくれて。 それは兄のようではあったけど、どこか違った。 優しくて、厳しかった。たくさんのことを教えてくれた。 逝ってしまった後も。ずっと、気づかなかった気持ちさえも。 Eの文字を描いた白い蝶が、十字架に止まった。 ゆっくりと呼吸するように、翅を開いては閉じる。 「さようなら、大好きだった人…」 飛び立った蝶は、煙を追うように空に昇った。 日本語での呟きは、聞き取れなかった筈だ。 けれど2人共、目を細めていた。 * * * 整えられた十字架の前に、白い花束を置いた。 それから、足元のバッグを肩に掛ける。 ……さあ、帰ろう…!! 吾代さんが心配してるし、新しい依頼も来てるみたい。 “サツのメガネチビから”って、笛吹さんのことだよね。 筑紫さんや石垣さんや等々力さんにも、会って話をしたい。 それに、あかねちゃんにはスペシャルトリ−トメントをしてあげなくちゃ。 叶絵からは、また大学の合コンへのゲスト参加のお誘い。 お母さんからは、料理教室で習った酢豚の写真。 ……うん。豚の足とか頭が見える程度だし、随分上達したみたい。 ヒグチさんとは、一緒にご飯を食べる約束があるし。 アヤさんにも面会に行きたいな。久しぶりに、睦月ちゃんや由香さんにも。 会いたい。 会って、話したい。 人を知りたい。 理解できなくても構わない。 理解されなくても…。 私は私のやり方で、世界と関わって生きていく。 皆がそうしているように。 貴方が、そうしていたように。 「それじゃあ、また!!」 見送ってくれる皆に、手を振った。 パパ・トガシの両肩の上に座ったカヨちゃんとマグダレ−ナちゃん。 その両脇に立ったエンゾ−君とエンリケ君。 エイシ君も、エマさんの腕の中で小さな手を振り返してくれた。 眩しいほど鮮やかな、最果ての空の下で。 − 跋 − 煙草の煙がゆらゆらと、溶けていく。 都会のくすんだ空の色は、嫌いではなかった。 見慣れていて、落ち着くものだった。 けれど、ふと思い出す。 南では、空はもっと鮮やかだった。 太陽の光も強かった。 あの頃の、狂気にも似た焼けつく憎悪。 憑かれたように復讐のことだけを考えていた日々が、今は遠い。 それでも、この手で確かめ決着をつけなければ、自分は何処にも行けないのだ。 未来にも、家族の元にも。 いつか、ここに帰ることすらも。 笹塚は色の薄い眸を細めた。 ……もしも。 全てが終わって、まだ命があったなら。 生きることが出来るなら。 海の向こうへと送ったアルバム。 最後のペ−ジに挟んだ、1枚。 遠い国の太陽の下で願っている 皆が幸せであるように − 終 − ≪TextTop≫ ≪Top≫ *************************************** 2010. 6. 6 本文を一部修正しました。 (以下、反転にてつぶやいております。) 小説「世界の果てには蝶が舞う」を参考にしつつ、あちら(南米)の13年後を想像し、 大捏造を加えてみました。 そして、こちら(日本)の3年後も、あちこち捏造しています。 笹塚さんの死について、色々な方向から書いてきましたが、この話が集大成の ような気がします。 「探偵」を書いたときに考えていた話ですが、1年余りかかってしまい、その間に 自分の考えも多少変化しました。 「探偵」での弥子ちゃんは「知りたい」だけだったのが、こちらでは「知りたい」を 含みつつ、少し違ったイメージです。 最初は、笹塚さんは死ぬつもりだったのか。 次に、笹塚さんは自分達を“どうでもいいもの”として捨てていってしまったのか。 最後は、笹塚さんは“(自分は世界で)独りきり”だったのか。 弥子ちゃんが「知りたい」「わかりたい」「納得したい」笹塚さんの“謎(内面)”は、 彼女自身の成長と共に微妙に変化していく…というイメ−ジなのですが、どうにも 上手く表現できなくて、こんなところで補足説明です。面目無い。(汗) 面目を無くしついでに、もう1つ補足説明を。(涙) あかねちゃん、エマさん、由香さんが弥子ちゃんに言いかけたことは、同じです。 『笹塚さん(刑事さん・エイシ・あの刑事)のことを、(恋愛感情で)好きだったの?』 相手が亡くなっているだけに、簡単には口に出せない問い掛けだと思います。 弥子ちゃんに、自覚らしいものがないだけに。 睦月ちゃんは、もう少し大きくなったら思い至るかもしれない。 (いや、あの年頃の女の子だと逆に、そうだと思い込んでいるかもしれない。) アヤさんは、わかっていて敢えて口にしないのではないかという気がします。 叶絵ちゃんは、最後まで笹塚さんと面識が無かったようなので(略)。 無断欠勤するわ、銃刀法違反をするわ、その他モロモロの笹塚さん。 “シックス”との対決後に命があったとしても、日本の刑法的にも当人的にも、 日本には留まら(れ)なかったでしょう。その場合、とりあえず行き先は南米かと。 一見、似合わなそうな暑くて熱い国で、ぼ−ッと光合成してる姿を見てみたかった。 今でも、そう思っています。 原作は原作として、崇め奉りつつも。 |