月は夜ごと海に還り
第六章
(1)
───── ・・・冷たい・・・─────
何かが髪から頬にかけて、行ったり来たりを繰り返している。
とても冷たくて心地好い。
顔に添えられたサーベルの切っ先・・・
体に染み込んだゲル・・・
コンクリートの床・・・
空と海の間の風・・・
・・・・・・!
───── ・・・落ちる・・・!
───── ・・・リア・・・
───── ・・・リ・・・ア・・・!
009は跳ね起きた。つもりだったが体に繋がれていたコードのせいで半身を起すことが出来ただけだった。
目が眩しい。頭がくらくらする。起きて、立ち上がって、探しに行かなければ・・・
「落ち着け、・・・大丈夫だ、もう・・・」
間近からの静かな声が、体が押し戻された。
そこは、薄暗い独房でもなく、火の海の真ん中でもなく、白い空の真下でもなかった。
最初に目に入ったのは、氷の様に薄青い瞳。それが009のごく間近まで迫っているので、さらさらとした銀色の髪はほとんど顔に触れそうだった。長いこと
自分の髪から頬にかけて往復していた冷たい物は何だったかと、もう考える必要はなかった。
部屋は明るく、さらに至近距離にあるふたつの瞳の薄青さが、さらに自分を明るく柔らかく照らしている様に思われた。
「・・・ジョー・・・」
ほとんど息の震えだけで形作られた言葉。目を開いてもなお、相手は髪と頬を撫でる手を止めなかった。
「・・・アルベルト・・・」
004は相手の顔を撫でていた手でそっと前髪を掻き上げて、額に静かに口づけた。ああ、彼の手と唇の優しさ、体に染み透る温かさ。
「生きてるんだね・・・」
「当たり前だ」
004は009の頬に唇を移動させて答えた。
だが009の眼は何かを探す様に室内を彷徨った。 004は腕の中で身じろぎする相手の心中を察して、少し体を引いた。
「リアとは・・・あいつの事か?」
鋼鉄の親指で隅のベッドを指し示しす。
夢の中での叫びが、口から漏れてしまったのだろうか。009はばつの悪い思いがしたが、今はそれ所ではなかった。
示された方向へ、急いで首を巡らせてみる。
奥のベッドに彼は寝かされていた。
血の気のない顔、ぐったりと閉じられた目の片方は包帯で覆われている。シーツから覗く肩にも包帯がきっちり巻かれ、瀕死の状態を思わせる体は微動だにしな
かった。
「無事なの・・・?」
「ああ。かなり危なかった様だがな」
あんなに鋭く自分を射ぬいたリアの黒い瞳は力無く瞼に覆われたままだ。全身から漂っていた圧倒される程のエネルギーは今は影を潜め、痛々しい姿をはっき
り晒してはいたが、それでも常に感じていた、荒々しくも優美な雰囲気は少しも損なわれてはいなかった。
死の淵をさ迷っていてさえも、人の心を怯ませ、覆い尽くそうとする、黒豹を思わせる人。
「良かった・・・」
「心配か」
009は答えず、奥を見つめたままだった。
004は奥に向けられたままの顔を静かに、それでも有無を言わさぬ手で自分の方へ向けた。
「敵の心配より・・・」
「え・・・」
コードを引っ掻けないようにそっと004が体に腕を伸して来た。
ふたりは静かに抱き合った。言葉は無くても重なる鼓動は互いの想いをはっきりと伝え、通じ合った。
悔恨。焦燥。安堵。感謝。
「君も・・・治ったんだね」
009は相手の腕に静かに触れた。
「お前さんが留守の間にな」
顔を見合わせて微笑み合う。
009の肩からコードのプラグがひとつ、外れてぽとりと落ちる。
腕に力が籠り、唇が近付いた・・・
・・・ふいに廊下が騒がしくなった。
途端に部屋の扉がばっと開いて、オレンジ色の塊が文字通り飛込んで来た。
「ジョおー!!!」
台風の如く部屋を突っ切り、ベッドにダイブしそうな勢いでそれは009にしがみついた。
「わわっ」
「あーっっ、生きてるー!!心配かけてよー!!もうお前はあ!」
叫びながら009の肩やら髪やら腕やらをわしわし撫で廻す。まるで大型犬がじゃれついている様だった。
「おい、コードがちぎれる!」
「ちょっ・・・ジェット!」
009は驚いて反射的に身を反らしたが、やがて微笑んで相手の体を優しく抱いた。
「ごめんね・・・002」
「生きた心地しなかったぜ」
ぐすんぐすんと鼻を鳴らして、002はさらに身をすり寄せる。004は抱擁を中断された上に相手を持って行かれて面白くはなかったが、ここは潔く002に
役を譲る事にする。
002も堂々と009を抱き締められる、滅多に無い機会を逃しはしない。
出来るだけ元気よく歩いてはいたが、002は僅かに右足を引き摺っていた。 防護服の裾から覗く白い包帯を見て、009の胸はきゅっと痛んだ。
「ありがとう・・・君が来てくれたから僕は・・・」
ほとんど涙声になる。
「もう何も言うなよ」
ひしと抱き合うふたりに向かって004が口を開きかけた時、バタバタと他の仲間達が駆け込んで来た。
「 009!」
「ジョー!」
皆口々に叫びながら、笑顔を向ける彼のベッドに駆け寄った。
ある者は優しく抱き締め、
ある者は肩に手を廻し、
ある者は髪を撫で、
ある者は控え目に頬にキスをした。
そして009は一番小さな仲間に向かって腕を広げた。
涙ぐむ老人の腕からふわふわと飛び上がり、それは009の膝にぽすっとおさまる。一番の厚待遇に誰も文句は言わない。
笑顔と涙の再会劇のどさくさに紛れて、002は愛しい009の小鼻の脇に素早くキスをする。ぎょっとする004と、
頬を赤らめる009を尻目に彼は、これくらいの特権はアリだろ、と涼しい顔だ。
「顔色も良くなったようじゃな。酸素濃度も脳波も正常値だし、もうコードは外しても良いじゃろう」
体にくっついていた様々な器具が取り除かれて、ようやく身軽になった。
「・・・もう起きてもいいですか?」
「今日一日はここに居なさい。明日はもう大丈夫だ」
エネルギーを既に使い果たしていた001はようやく安心したのか、009の膝の上でそのまま眠りこんでしまった。
後ろから003にメンテナンス用のローブを着せかけられ、手渡されたボトルの水をストローから大人しく飲んで、ようやく009は一息ついた心地だった。
そこで004が静かに口を開いた。
「さて・・・009、早速で悪いが・・・話を聞かせてもらおうか」
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