月は夜ごと海へ還り

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  第二章  


(1)



 水平線上に姿を現した半円形の太陽が、ミルク色の霧を少しづつ溶かして行き、今日一日の快晴を約束する。
  皆が朝食に集まる頃には日光が霧の湿っぽさもすっかり吸収し、木々の緑を鮮やかに際立たせた。

  引き潮を待ってドルフィン号の修理を全員で開始する。修理、点検、周辺の島の調査でその日は遊ぶ暇なく、瞬く間に暮れてしまった。
実際002、009のふたりは未知なるこの島を自分達で探検してみたくてたまらなかったのだが、厳しい004の目を盗む事は 遂に出来なかった。





 真夜中を少し過ぎた時刻。

 見回りを終えた009は、森の奥鳥達が低く唸る木立の下を注意深く歩いていた。
 彼らの鳴き声と風が木の葉を揺らすかすかな音が時折耳に入るくらいで、潮騒もここまでは届かない。頭の上に鬱蒼と茂る厚い木の葉が月明かりを切れ切れに し、湿った枯葉が積もり、でこぼこした木の根が網の目にはびこる土の上をさらに歩きにくくさせる。

ドルフィン号からかなり離れたこの辺りは、島の中心部よりさらに北、実は見回りの帰路ルートから大きく外れていた。
────さぼるつもりはなかったのだが、やはり好奇心は押さえられなかったのだ。

 深く静かな森の中で、誰にも邪魔されず、たったひとりで深呼吸出来る事を心の底から喜んだ。夜の澄んだ空気は爽やかで甘く、適度な湿気を帯びて彼の人工 皮膚と人工臓器をたっぷり潤した。
009は先程からかすかに耳に入る涼し気な音を追ってここまで来た。

 そしてそれは目の前に唐突に現れる。
 鏡色の月に照らされて、白っぽい岩の間をとうとうと流れる沢の水。
こぢんまりした滝壷から幾重にも折り重なって帯の様な支流を何本も作り、大小の石を穿ち乗り越えて優美な流れの曲線を作っている。岩にぶつかって宝石の様 な飛沫が上がる。
それらすべての物が頭上の月明かりを反射して、眩しいくらいに冷たく輝いていた。

『わあ・・・』

 奥深い森の中にぽっかりと空いた谷底の、その美しさみずみずしさ。009は心の中で感嘆の叫びを上げた。
誘われる様にそろりと足を踏み出し、流れに近付く。
 そっと手を浸してみた。瞬間、刺す様な冷たさが皮膚に走ったが、それはすぐに心地好い温度に変わった。
両手で水を掬ってみると、手の中に月が歪んで映った。

 きょろきょろ周囲を見回し、耳を澄ましてみる。ごぼごぼ言う流れの音しか聞こえて来ない。彼は立ち上がって、一瞬躊躇したもののあっさりと防護服を脱ぎ 捨て、鏡の様な滝壺に飛沫を上げて飛込んだ。

水に耳をふさがれて一切が無音になる。

ゆっくり体が沈み、水底の石が優しく裸の体を受け止めた。

月の光が射し込んで体に金色の縞を作る。

体の余分な熱や汗が、流されて行く。髪が水の動きに捕られて揺らめくのさえ快感となる。
赤ん坊のように手足を縮めて丸くなると、機械で出来た筈の体が溶けて大自然に帰ってしまいそうだった。
人工脳の中までひんやりした心地好さに包まれて、彼は恍惚とした。

009は目を閉じ、両腕を広げて流れに身をまかせ、澄んだ水の中を漂った。


 ひとしきり泳いだ後、彼は平らな岩の上に上がって濡れた体を横たえた。
体を拭く物などもちろん持っていなかったが、夜風が優しく乾かしてくれる。月光が自分の体を隈無く照らし、毛穴の一つ一つまでさらけ出そうとする。
 誰もいない場所での水浴と月光浴という贅沢なひとときに、彼は酔った。周囲は深過ぎる闇一色だったが全く怖いと思わなかった。

 柔らかい風と光、まつわりついたままの水滴は恋人の愛撫の様に密やかに裸の体を撫で、思わず身じろぎする。

「・・ん・・・」


 目を閉じて、無意識に指で己の唇に触れる。体の中心に微かな熱を感じた。
ぎゅっと足の指が曲がり、岩に擦りつけられる。


 その時。
何かが体の中を走り抜けた。
ぎくりと硬直する四肢、まるで稲妻が音も無く突き抜けて行った様な感覚。


『 見られてる・・・!』
そう気付いたのは異変を感じ取ってから一秒後の事。

彼は目を開き、眼球だけそろりと動かしてみる。
沢に突き出した崖の上に何かが動いた。

『 何・・?動物?いや、違う・・!』

 009は戦慄した。いま自分は防護服を身に付けていない、恐ろしく無防備な状態なのだ。もし敵だったら取り返しのつかない事になる。
彼は激しく後悔した。

ゆっくり後ずさって置いてあったレイガンを手に取り、ばっと崖の上に向かって構えた。

何も動く物はない。

『 気のせいかな?でも・・』

 構えたままそろそろと片腕を伸ばして、脱ぎ散らかしてあった防護服を掻き集める。

 吹き抜けた風が、鏡の様な水面を次に濡れた髪を体をひと撫でしていった。

 目をこらし、今度こそはっきり捉える。

 月光に小さく反射して光る人の形をした姿、なびく服の裾を。
 はっきりとした銃口の煌めきを。



 それは黒い影となって僅かに揺らめき、瞬きする間もなく、一瞬で消えた。






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