月は夜ごと海に還り
(3)
結局、『しばらく様子を見てみよう』と言うことで、その場は解散となった。無理矢理探し出した所で攻撃して来なかった相手をどうこうする事は出来なかっ
たし、船の停泊地を変えるのも修理途中の今行えば、燃料漏れを起こす恐れもあったからだ。
004と009は連れ立ってコックピットを後にし、各自の部屋の並ぶ廊下へ向かっていた。
仲間よりも2、3歩先を歩きながら、009は先程の謎の影やたった今終えたばかりの話し合いの事を、まだぶつぶつ考えていた。
『──── あれは絶対幽霊なんかじゃない。でも・・敵とも思えない』
「009」
後ろから呼び掛けられ、我に返って振り向いた。
「あ」
気が付けば、自分の部屋はもう通り過ぎていた。 ばつが悪そうに慌てて引き返す。
「まだ考えていたのか」
「いや・・うん、頭から離れなくて」
009は困った様に曖昧な笑みを浮かべた。
「でも、もう明日にするよ」
おやすみ、と言って彼はそそくさと自分の部屋のドアに足を向けた。
「──── 009、ひとつ聞いておきたいのだが・・・・」
背後から呼び掛けられ『?』と振返る。そして次に発せれらた相手の言葉に一気に血の気が引き、動きが止まった。
「水浴びは楽しかったか?」
「 ────え?」
「 楽しかったかと聞いている」
夜中の廊下は淡い常夜灯の明かりのみで薄暗く、互いの顔は影になっており、さらに目を逸らし気味の009に相手の表情は読み取れない。004の声は普段通
りの静かな口調で、それが却って不気味だった。
「な・・何の事だか・・」
弱々しくしらばっくれる相手に004はつかつかと近寄り、後ずさる彼の後頭部辺りの毛を指先でつまんだ。
「 ──── 髪が濡れている」
静かな、無表情な声。同じく、無表情な薄い瞳。
「あとは乾いたようだが、ここだけ。──── 髪が濡れているのに」
ゆっくりと、何の抑揚もなく、その声は近くなって、
「防護服もマフラーも、全く濡れた様子はない ──── と、云うことは」
周囲の薄闇が急に濃くなった気がする。
「滝壺があったと言った。しかしうっかり落ちたりしたのではなく、」
自分の髪を指先で弄ぶ、彼の刺すような、でも感情の感じられない空気。声が前髪にかかり、視界がさらに暗くなる。
「お前さんは『自分から』服を脱ぎ、『自分から』水に入ったと云うことだ」
自分の呼吸が浅くなって、喉に張り付く。本当は無理にでも深呼吸したかったのだが、そんな事すれば一気に相手の神経に触れそうな気がして、
────とても、そんな事は。
余りにも判りやすい009の反応に、004は嘆息した。髪から指を離す。彼が恐る恐る自分を見上げ、その瞳が震えているのを目にして、やれやれと自分の
頭に手を当てた。
「いや・・とにかくちょっと来い」
内容から廊下で話を続けるのはまずいと気付いた004は、相手の腕を引っ張って、取り敢えず自分の部屋に押し込んだ。
ドアを閉めて、彼を前に立たせた。
気の毒な位項垂れて、目を伏せ、前に居る仲間の顔を見られないでいる。その様子になぜかむらむらと怒りといらだちが沸いて来る。恐らく今自分の周りには
殺気さえ漂っていることだろう。
「全くお前さんは、」
004は吐捨てる様に言葉を投げる。
「一体自分がどういう状態だったのか、判ってるのか!?」
相手はビクリと身を竦ませた。何も答えようとはしない。顔を横に向け、自分を見ようともしない。
「──── 判っているのか!!」
自分でも驚く程荒々しい声が出る。肩を掴んで乱暴に揺さぶった。
「痛っ──── 痛い・・ごめ・・ごめんなさい・・」
体を庇う様に捻って009は弱々しくつぶやく。ベッド脇の明かりに照らされた彼の頬は赤く、涙目にすらなっていた。
「敵が潜んでいるかも知れないまだよく判らない土地で、夜にたったひとりで、しかも裸で水浴びとはいい度胸だ」
「・・・・・」
「今回は何事もなかったから良かったものの、それはあくまで偶然だ。今頃お前さんはその滝壺に死体で浮いていたかも知れないんだぞ?」
「・・・・・」
「お前さんらしくない行動だ。言え、なぜそんな馬鹿な事をした?」
「・・・・・」
「・・・言え!!」
「・・・ 月が・・・」
「 何?」
「月が綺麗で・・・」
・・・・・・僕を誘ったんだ・・・・・
009は手の甲で自分の目をごしごし擦った。
004は掴んでいた肩から手を離し、絶句した。
沈黙が落ちる。
009は相変わらず床を見遣ったままだった。
元々004には最初から判ってていた。謎の人影を見てしまった時から、言われなくても009が自分の軽率さを深く反省し、後悔しているであろう事くらい
は。
こんなに厳しく彼を詰問する必要など無い事も。
シェードが開かれたままの窓の向こう、四角く切り取られた暗い夜空を、無意識に眺める。
判っていながらなぜ、自分はこんなに腹を立て、いらだっているのか?
────その訳も、実は最初から密かに自覚していた事だった。
ふうっと息を吐き、ゆっくり窓に近寄ってシェードを降ろす。
ここから、月は見えない。
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