(10)−前編
黒々とした庭の池の上を風が撫で、漣の様な水紋を続けざまに作る。
その度に着流しの裾が何かを催促する様に揺れて小さく翻る。
ぼんやりとした半月と、死人の目の様な弱弱しい光の星達が、暗い夜空にほんの申し訳程度に散らばっている。
障子を開け放ってじっと闇を見つめる土方の指先で、小さな赤い炎が瞬きの様に点滅し、煙が立ち昇っては風に散った。
緩慢な動作で灰皿に吸い殻を押し付けた。細く儚い煙が立ち昇り、こめかみの辺りを指でゴシゴシ擦った。やがて立ち
上がると、スパン、と障子を閉め、土方は急ぎ足で廊下に出て行った。
「副長、お出掛けですか」
裏玄関で、隊士の一人が擦れ違いざまに声を掛けた。
「ああ」
ぼそりと答えて土方は冷たい下駄に足を入れた。
彼には敵わない。剣の腕は何の役にも立たない。
追い掛けても追い掛けても、彼を捕まえる事は出来ない。
彼はこの自分を見ていない、認めてすらいない。
そう気付いてから、 少しずつ土方の心は傷付いていった。冷たい眼差しも、罵りに似合わぬ澄んだ声も、宙に弧を描く長い髪
も、すべてが土方を傷付けた。
傷付きながらも、土方は彼を追い掛け続けた。それが土方に出来る事の全てだった。
その内彼の方でも逃げる背中にこれまでとは違う必死さを見せる様になった。走りながら何度もこちらを振り返る彼は、何か言い
たげな顔をしていた。
土方の心は一層深く、深く傷付いた。
ある夜、路地裏の袋小路に彼を追い詰めた。逃げる彼の肩を掴み、引きずり倒した。二人は折り重なって倒れ込み、彼は土方の下で
必死にもがいて抵抗した。土方は全身でのし掛かり、両の手首を強く拘束した。息を喘がせながら、彼の瞳が乱れた髪の中から強
く土方を睨み付けた。
既に土方の心はずたずたに切り裂かれていた。痛みに耐えかねて土方は、彼の潤んだ様に輝く瞳を覗き込んだ。
すると彼は急にはっと息を飲んで、見る見るその表情を変えていった。
土方は彼の瞳の、もっと奥へと入り込もうとした。なのに、彼は白い瞼を強く閉じて覆い隠してしまった。
閉じさせたのはこの自分なのだと、土方は考えた・・・・。
半月を背に土方は静まり返った往来を歩いて行った。ひんやりした夜気の中に地面を蹴る乾いた下駄の音がやけに響いた。
それが徐々に早足になる体に直に伝わって、高鳴る胸の鼓動と一つになった。それが彼を導いていた。暗い道をある一つの方向
を目指して、まるで闇の方へ闇の方へと。
文机の灯りだけが灯った部屋。灰色の畳の上にだらりと寝そべる 山崎の手の中、読まれ過ぎてくたりとなった手紙、そして
一本の黒い短刀。
暗い天井を眺め、斜めに光が落ちる土壁を眺め 、風呂から上がってからの長い夜を山崎は過ごしている。
手紙はもう暗記するまで読み込んだ。桂からの返事。それが自分にとって何か慰めになっただろうか。
山崎の怪我を気遣い、自分の配慮 の足りなさを詫び、教え、諭す。あの日交わした会話その儘に。
・・・・ 若さとは夢を見る事でもある。だが今、貴殿が夢見るべきは、何よりも江戸の未来・・・。
どうか、これからの日本を担う者として、広い視野を持って欲しい。・・・その真っ直ぐな魂を大切にしてもらいたい・・・・
いつかこの国が新しく生まれ変わった時、きっと我々は今とは違う形で邂逅出来るであろう・・・・
山崎はごろりと寝がえりを打って、冷たい畳に頬を付ける。
・・・・桂さん、どうやら分かってもらえなかった様ですね。俺はあなたに 夢 なんか見ちゃあいない。これから見るつもりも
ありません。
あらゆる人からの夢や希望なんて名の荷物を 、ずっとずっと一人で背負って来たあなたです。そうして歩いて来た道を信念と
呼ぶのでしょうけれど、でも、桂さん、あなたは、自分は迷ってばかりでここまで来たと言った。
捨てきれない荷物を抱えて、あなたはこれからも迷い続ける。
そんなあなたに夢なんて見ない。
夢なんて、一度たりとて見ないのに・・・・。
再び仰向けになってかざした手から手紙を放して落とした。紙はふわりと舞って、間近の彼の吐息の様に瞼を優しく
覆った。
外の廊下の向こうで足音と声がした。
──── 副長、お出掛けですか
山崎はそっと顔の上から紙を取り退けた。
裏玄関の引き戸が開いてピシャリと閉まる音がかろうじて耳に届き、それきりしんと静まり返って再び元の夜に戻った。
山崎はがばりと起き上った。手紙を几帳面に畳むと文机の引き出しの奥底へと急いで仕舞い、立ち上がって出口への襖へと
駆け寄った。そこで はっと気付いて引き返し、畳の上にぽつんと置かれた短刀を素早く掴んで懐に押し込んだ。
今度こそ襖を開けて、山崎は外へと飛び出して行った。
──── 貴様、俺を愛するのか
掠れた小さな声で彼はそう言った。
土方は面食らった。
薄暗い宿の部屋。黄昏時、褪せた畳に落ちる陽の色が濃く沈みつつあった。
俯き長い髪に隠されて、彼の表情は窺い知る事も出来ず、どこか不自然な言い回しのその言葉だけが、頭の中でぐるぐると回って
踊った。
回り続ける中で「愛する」が「あいする」になり、その間にも夕暮れの色は二人の間の畳の目を飲み込んで行き、更に交互
に入れ替わっては踊った。
そして唐突にその二つともが雷の様に土方の上に落ちて来た。
嘗て少年の時、天が己に剣の道を授けた時と同じ衝撃。
初めて握った剣は 土方に教えた。多くの屍の上に成り立つ境地、命の重み、生命の証を。
彼と剣を交え、向き合い、見つめ合う度に、心を抉って止まなかったもの。
俺をあいするのか。
彼によって目に見え、耳に聞こえる形で土方に投げかけられた。
土方の中で天地がひっくり返る。
心の中で叫ぶ。
そうだ、俺達はこれから愛して、あいしあうんだよ。生きて、生きて、生きるんだよ。
全身全霊で応える。
完璧な幸福、命の重み、生命の証。
剣と、桂と。
夕映えに染まる部屋の中、土方の心も血の様な赤い色に染まっていた。
暗い夜道、迷い無く歩いて行く着流しの土方の背中を、山崎は追う。心臓が静かに高鳴っていた。同時に凝らした目は監察の名に恥じぬどこ
ろの輝きではなく、山崎の神経を獣の様に研ぎ澄ませる。
道に徐々に人とネオンの明かりが多くなり、やがて完全な繁華街へと二人は入り込んでいた。
お兄さん、可愛い子たくさんいるよぉ〜〜
四方八方から伸びる派手な呼び込みを振り払いかいくぐる。
派手派手しい喧騒の中でも淀み無く進んで行く土方の様子に、山崎ははっきりとした意志と目的を感じ取っていた。
土方は一軒の喫茶店へ近づいて 行った。待ち合わせ・・・?だが 予想に反して中には入らず、土方は
店先の看板の陰の壁際で立ち止まり、新しい煙草に火を点け、ゆっくりとふかし始めた。
山崎もとりあえず建物と建物の隙間に身を潜め、ほぼ目だけを出して相手の挙動を観察し始めた。
しばらくの間、土方が地面に落とす吸い殻の数を山崎は数え続けた。そのほかは
周囲のざわめきは止むことを知らない、ありふれた金曜日の夜だった。
そんな中で 土方の目が僅かに 動いたのを 、山崎は見逃さなかった。
彼の目の先の人波に目を凝らす。賑やかな影の塊がひっきりなしに動く中で、益々山崎は視線を集中させる。
向かいに建つ料理屋の裏口。そこにある一人の影に山崎は気が付く。
深く編笠を被った、特に目立つ訳でも無い姿がやけに注意を引く。
その影は、人でごったがえす道を見通す様にしばらく佇んでから、ゆっくりとこちらに向かって歩き出した。
土方の体は短くなった煙草を指先で挟んだ儘動かない。
行き交う群衆や車が視界の邪魔をする。山崎はじっと目を凝らし、伸び上がったり縮んだりして懸命に姿から目を離すまいと
した。
編笠は人波をふわふわと漂いながら近づき、ついに土方の佇む側までやって来た 。そこで初めて土方は凭れていた壁から
身を起こし、その行く手を半ば阻む様に道に一歩踏み出した。
立ち止まる編笠。土方の方を向いて 覗いた白い顔。
山崎は手の甲を強く押し付けて我が口を塞いだ。
なぜ彼、桂と土方が一緒にいる 。なぜ土方は桂の居場所を知っている。
なぜ土方だけが。
何か言葉を交わしている二人。人通りが多い場所故、距離を取る事も出来ずに彼らの距離は近い。
知らず知らずの内に呼吸が早くなる。滲み出た汗が着物の襟を濡らす。
汗ばんだ瞼を更に見開いて、山崎は二人を凝視した。
連れ立って二人は歩き出した。山崎も潜んでいた場所からするりと抜け出して後を追った。
だがごったがえす歓楽街、ご機嫌な酔っ払いの集団が進路を遮った。彼らの向こうに二人の背中がどんどん 小さくなるのが見えた。
酒臭い体を押し退け、何とか抜け出した所へトラックが2台、山崎の体を擦り切る様にして続けざまに通った。
トラックが通り過ぎ、空いた空間につんのめる様に飛び出た時には、既に二人の姿は消えていた。
ぐっと歯を噛み締め、雑踏の中を山崎は走り出した。