(3)
山崎は廊下に貼られたポスターの前に長いこと佇んでいた。
困った事に、屯所中に彼の写真がある。仕事に忙殺されて忘れていてもちょっと顔を上げればすぐに目に入って来る。
いつでもどこでも頭の中に瞼の裏に現れる。その度に心臓を針で突っつかれている様な気分になる。
頬の傷は疾うに癒え、ごく僅かな跡を残すにのみになった。屑籠に放り込んだ最後の絆創膏の残骸が名残惜しく目に焼き付いた。
彼との思い出の証はこれで無くなった。
あの夜彼が自分の頬に当てがってくれた懐紙を捨てた事に後悔さえ感じた。(誰が血のついた懐紙など後生大事に取っておくだろう)
「・・・・・・山崎!」
不機嫌な声で我に却った。声のした方を向くと、いつも以上の仏頂面で土方がこちらを睨んでいる。
「・・・・・・はい?」
「何度も呼ばせんな。一度で返事しろ」
「・・・・・・すみません・・・・・・」
自分は土方に何度も声を掛けられたのに全く気付かなかったらしい。
─────── ・・・・・・どうかしてる・・・・・・!
「で、俺に何か・・・・・・?」
「聞きたい事がある。俺の部屋に来い」
仏頂面のまま土方は背を向けた。
「今すぐにな」
そう付け足した背中の向こう側から細い灰色の煙が立ち上る。
「失礼します・・・・・・」
山崎はかなり緊張しながら土方の部屋の畳を踏んだ。
「閉めろ。座れ」
おずおずと山崎は座卓を挟んで相手の真向かいの席に腰を下ろした。
しばらくの間土方は座卓に肘をつき、こちらに一瞥もくれずに黙って煙草を銜えていた。その一方で山崎は気が気では無い。何だか相手はい
つも以上に不機嫌だ。
知らぬ内に何か大きなへまでもやらかしていたのだろうか。
上司の無言の圧迫に耐えきれなくなった頃、ようやく当の土方は口を開いた。
「率直に聞く」
いつもの前置きを聞く度、率直過ぎる、と思う。
そして真直ぐに爆弾は降って来る。
「─────── お前、桂に会ったか?」
「え・・・・・・」
言葉に詰まるというのは、土方との会話の中ではかなり命取りと成り得る。焦れば焦る程頭の回転速度が遅くなる。舌が縺れる。喉が乾く。
「どうなんだ?」
「そ・・・・・・んな、事ありません」
土方は前髪の間から山崎を探る目つきでじっと睨んだ。
「八日の夜・・・・・・、お前は老松屋の偵察だったな」
「・・・・・・はい」
「九日にある目撃証言が俺の所に来てな。辻時計店の辺りで桂小太郎を見たと。老松屋のすぐ傍だ。でも特に何も気に留める要素は無い。
あいつの目撃談なら今までも腐る程ある─────── だが山崎、お前が顔に傷作って帰って来たのは、その日だったな」
「・・・・・・」
「俺はまだ何も気付かなかった。俺達にとって怪我なぞ日常茶飯事だからな。ただお前が塀から落っこちたかなんかした位に
思っただけだ。────── だが後々思い出した。お前の傷は・・・・・・そいつぁ刀傷だ」
膝に置いた拳に力が入った。手の中はきっとぐっしょり濡れている。
土方はふーっと面倒そうに煙を吐いた。
「・・・・・・最近お前は勤務中もぼーっと間抜け面をしている事が多くなったな。それとなく観察してたらお前、事あるごとに
しょっちゅう桂の写真の前に突っ立ってうっとり眺めているじゃないか。俺ぁ確信したよ。山崎、お前八日の夜桂に会ったな?
・・・・・・あいつとやり合ったんだろう」
相手の話が終わらない内から、山崎は頭の中ではとっくに観念していた。
しかしこの場であっさり認めてしまうのはまだ早い気がしていた。土方の推理は当たっているとはいえ、それをそのまま結論に結び付けてぶつ
けるのは少々強引過ぎると思ったからだ。
勤務中のぼんやりは明らかに自分に非があるが、単なる主観的な思い込みだと主張出来ない事も無い。
写真なぞに見惚れていた事への気恥ずかしさも山崎の青臭いプライドを傷付けた。事実であるが故に反抗したくなるというものだ。
しかし、どっちにしたって上司の反応には大差無いに決っている。良心に従ってやはりここはあっさり認めた方がマシかもしれない。
そう考えて山崎は膝に目を落した儘謝罪の言葉を口にする。
「・・・・・・すみません・・・・・・副長、俺・・・・・・報告せずに・・・・・・」
「そうじゃねーよ」
相手はいらいらと煙草を灰皿の上で乱暴に揉み消した。
「────── 俺が怒っているのは、貴様が勝手に桂に近付いたからだ!!」
ガシャンと乱暴に机を叩き、灰皿が斜めに跳ね上がる。山崎はビクリと体を竦めた。
「・・・・・・っ・・・・・・すみませ・・・・・・」
「桂に挑んだのか。自分の実力を何だと思ってるんだ。そもそもあいつはわざわざ自分から真選組の、それも貴様の様な雑魚にちょっかい掛け
る事
なんざしねぇ。おおよそ貴様が勝手にあいつに何かやらかしたんだろう。下手に刺激して攘夷浪士達の大規模な決起なぞ促しでもしたらどう
責任取るつもりだ、ああ?・・・・だいたいその傷は何だ?」
「・・・・・・」
「あいつにとって貴様などちょっと暇潰しに野良猫の相手をしてやったようなもんだ。だいたいあいつは狙って顔を傷付ける様な姑息な真似は
しない。・・・・・・なのにあいつから傷などもらって来るたぁどういう事だ?貴様桂に何をした?────── 一体桂に何をした?」
────── 桂に何をした?
────── 何をした?何をした?
「ぼーっと写真に見惚れる位の事があったのか。今貴様がやってる様に、傷を撫でて確かめたくなる位あいつの剣は良かったのか、ああ?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!
何かが心の裏側を絶えず行きつ戻りつしている。その癖いざ振り返るとまるでそれは幽霊の様に姿を消してしまうのだ。後には奇妙な痕跡だ
けが不気味に散らばっている。
薄暗い自室の真ん中、畳の上に大の字になって山崎は考えに没頭する。
下っ端の自分が独断で桂に近付き、尚且つ報告しなかったのは確かにまずかった。だが土方の言葉や表情の裏に
山崎は咎めるべき内容から微妙に逸脱したものを感じ取った。監察という仕事で培った野生的な本能がそう教えていた。
瞳孔の開いた瞳は山崎の腹の底までを真直ぐ見通して来る。
自分と桂の間の出来事。土方の言葉。表情。不規則な距離に落された点と点。それらを結ぶ線を探そうとする。怖くなって止めるの繰り返し。
思考は煮詰まった頭の中を右往左往して壁にぶつかってばかりいる。
長いこと見つめ続けた天井の木目模様が、蛇の様にぬるりと頭の中に入り込んで、やがてもやもやとしたある記憶のひとつを探りあててい
た。
半年程前の事だ。
その日山崎と土方は揃って非番だったのだが、別々に出掛けていた街の中で偶然出くわした。丁度昼時だったこともあって一緒に飯でも食う
かとなり、 すぐ傍の定食屋に連れ立って入った。
窓際の席に案内され、珍しく土方が奢ってくれるというので山崎は熱心にメニューを眺めていた。
「副長は何にします?」
そう言って頭を上げると、土方は窓の外をやけに真剣に見つめている。つられて同じ場所に目を遣ると、相手の視線先、
道を挟んだ向かい側にあるのは江戸中にチェーン店を構える洋菓子店だ。甘い物をあまり好まない土方には珍しい事だ。
訝しく思っていると、店の前に立っているふたりの男の姿が目に入った。一人は天然パーマの白髪の男だ。
「あ、万事屋の・・・・・・」
言い掛けたその時白髪男の連れの顔が目に飛込んで、山崎は飛び上がりそうになった。
「かっ・・・・・・桂・・・・・・!」
坂田銀時と桂小太郎。ふたりは寄り添って何やら話し込みながら今買ったのであろう袋の中身を覗き込んでいる。
「ふ、副長、あれ・・・・・・!!」
土方は返事をしなかった。
「は、早く屯所に・・・・・・」
山崎はわたわたと懐から携帯電話を取出した。
その時にゅっと伸びて来た土方の手が山崎を制した。
驚いて土方を見た。彼は手だけをこちらに伸ばし、ふたりから目を離さない。
窓の外では桂が呆れた様な表情で何かを言っている。銀時は気にする素振りも無く無造作に桂にヘルメットを被せた。
そうこうする内にふたりはスクーターに跨り、長い髪を風に散らしながらあっと言う間に走り去った。
ふたりが姿を消してしまった後しばらくしてようやく、土方は窓の外から目を離した。
そして疑問と非難の入り交じった山崎の顔をちらりと見てこう言った。
「・・・・・・俺達ぁ今日は非番だ」
それはぼそりとした声ながらも彼独特の威圧感に満ちていて、山崎は疑問に思いながらも逆らう事は出来なかった。
料理を注文し、それが来て食べる間ずっと山崎の頭の中は混乱していたのだが、土方はさっきの出来事について何も言わず、それ以後も
二度と話題に上る事は無かった。
今だから分かる。桂を、仲睦まじそうなふたりを凝視する土方の目はどこか暗い輝きを帯びてはいなかったか。彼の表情からは何か澱んだ熱
が感じられなかったか。
真選組副長土方十四郎と攘夷党首桂小太郎・・・・・・
・・・・考えすぎだろうか?
散らばった点のひとつひとつから極々細い線がのび始める。それが心の中に蜘蛛の巣の様に張巡らされ始めるのを、山崎は感じていた。