(4)
土方に自室に呼ばれてから数日が経った。彼はあれから何も言って来ないし、自分に対して何か態度が変わったという事も無い。今までと同じ様に
怒鳴られこき使われる毎日が相変わらず続いている。
廊下のポスターの前は意識して素通りする。その代わり心の中では、攘夷志士達に関する情報などに今まで以上に敏感に反応していた。
土方との一件が山崎の心に拍車を掛けた。混沌とした腹の中で、涼やかな黒い影が明瞭な形を取り始めている。
心の昂りは誰にも見せない、自分だけの秘密だ。
仕事熱心を装って、山崎の心の中はただ一人の影を追っている。
一見は百万回の想像を凌駕する。
疑惑と感情の昂りは比例する。
山崎はこれらの事を身を持って体験する事となる。
ある日の事。
山崎は天人の大使館への使いの帰りだった。屯所への道の途中にある街で一番大きな橋、その傍を足早に通り過ぎた時あるものが目に
入って、山崎は思わず二、三歩後戻りした。
ゆるく弧を描く橋桁の真ん中、雑踏に溢れたその場所に佇んでいる黒い服の男。
────── 副長・・・・・・
土方は橋の欄干を見つめている。
行き来する人波の間を目を凝らし土方の視線を辿ってみると、そこには編み笠を被った一人の有髪の僧侶が座っている。
そのまま見ていると、土方がゆっくりとその僧侶に近付いた。
布施でもしようというのか。珍しい事もあるものだ・・・・・・。
編み笠が僅かに上を向いた。山崎の位置から顔は見えない。
つと、僧が立ち上がった。ふたりは山崎に背を向け、なぜか連れ立って歩き出す。
黒い隊服の背中と袈裟姿。ちぐはぐな組合わせだ。変装した指名手配犯か何かだろうか。それにしてはふたりの動作がのんびり過ぎる。
ふたりは一体何を・・・・・・訝しく思った瞬間、山崎の中であるひとつの想像が駆け巡った。
頭の芯が凍った様に痺れ始めるのと同時に足が勝手に動き出す。
人波の間を縫って前のふたりの後を追った。
ふたりは橋を渡り終えるとそのまま下の河川敷に降りていった。
山崎も気付かれぬ様に土手を下った。ふたりは橋脚の真下、丁度橋桁からも往来からも死角となる場所で立ち止まった。山崎は橋脚の影に身を潜め
ると、高く生い茂る雑草の間から彼らの様子を観察する。
彼らの会話に耳を澄ましてみるが、橋を行き交う人々の騒音が真上から直接響いて全く聞取れない。かと言ってこれ以上近付くのは危険だ。
橋脚の真下は川の水の匂いと草いきれで空気が塞き止められ、どこか澱んでいた。
さらに頭の上まで雑草に覆われている山崎は息苦しくて堪らない。
何かを熱心に話し込むふたり。
土方が銜えていた煙草をぺっと地面に吐き出して踏み潰した。
一歩土方が相手に詰め寄る。それを避ける様に姿勢を変えた相手の顔が、編み笠の下からはっきりと見えた。
桂小太郎。
ああ・・・・・・やはり・・・・・・
土方が詰め寄り、桂が俯く。土方の瞳がぎらりと光る。上目づかいに桂が何か咎める様な表情をする。
口論でもしているのか。
距離が近い。そこだけ空気が濃縮されている。
土方が桂の手首を掴み、錫杖がガシャンと地面に転がった。至近距離でふたりは互いに睨み合う。
桂が何か言おうとしたその時、土方は掴んだ手首を引き寄せた。
桂と、そして隠れている山崎の目が同時に大きく見開かれる。
土方が相手の手首の脈打つ部分に唇を押し当てたのだ。
桂は勢い良く手を振り払った。
相手を一睨みして桂は背を向ける。土方に動じた様子は無く、表情は固いままだ。錫杖拾い上げぐっと編み笠を深く被り直すと、桂はぱっと駆け出した。
黒い法衣の裾と、目に痛い程白い足袋が山崎のすぐ目の前を横切って行く。
彼は振り返らずに足早に土手を駆け上がり、土方と隠れている山崎を残してあっと言う間に消え去った。
土方と山崎は、共にしばらく動かなかった。
濁った水の匂い、生い茂った草のむんむんする青臭さ。橋桁から響く行き交う人々の足音。
橋の下はいつも澱んだ吹き溜まり。
桂小太郎と・・・・・・。
土方十四郎・・・・・・
桂と・・・・・
副長が・・・・。
彼が彼と・・・・・・。彼と彼が・・・・・・。
ふたりは・・・・・・。
朝から晩まで同じ言葉が頭の中を駆け巡る。
山崎は煩悶する。
指名手配犯と真選組。しかも自分だけではなかった・・・・・・!
あの副長が・・・・・・副長が・・・・・・。
すべてを知った今だから思う。自分と同類の匂いを敏感に嗅ぎ付けた土方は先回りをし、遠回しに釘を刺した。
『桂に勝手に近付いた』事を土方がなじったのにはやはり裏があったのだ。
しかしそのこじつける様な内容が仇になり、却って疑惑を抱かせる事になった。
巧妙に見えて実はかなり粗削りな予防線だったと言わずにはおれない。土方に似つかわしくない焦燥が理性を駆逐した結果なのだ。
そう、桂は土方の理性をこんな簡単に奪う。土方にとって桂はもうただの『テロリスト・指名手配犯』などでは無い。この世にたった一人の、
憎くて愛しい想い人なのだ。
元々の条件が絶望的過ぎる上に、この自分が土方に敵う訳がない。
『・・・・・・副長殿によろしく・・・・・・』
別れ際桂は言った。あの夜も、昼間も。
思い出すだけで胸を掻き毟りたくなる。
彼の目には、この自分は土方の部下としてしか映っていないのだ。
ふたりを目撃した日、土方は山崎より一時間程遅れて屯所へ帰って来た。
山崎は大使館への使いの首尾を報告しに副長室へと赴かなくてはならなかった。
土方は刀の手入れの最中だった。
胡座をかいて鋼の刀身に打ち粉を裏、表に万遍なく掛け、拭い紙で丁寧に拭き上げる。
これを黙々と繰り返す土方の横顔を見ながら、山崎は正座して報告をこなす。
「ん・・・・・・ご苦労」
気が無さそうに呟いて、土方は磨き上げた刀身を目の前にかざし、出来映えを確かめる。障子を通した薄暗い光に透けて、鏡の様に曇り一つ無い刃がきらりと
光った。
彼は立ち上がり、試し切りでもするかの様に抜き身の剣を宙にぶんと振る。破れた空気の音が耳を部屋を突き抜け、電灯の紐が山崎の頭上で振り子の様に揺れ
た。
報告が終わっても出て行かない山崎に、土方は不審そうに目を遣った。
「副長・・・・・・」
「なんだ」
「俺・・・・・・実は先日も桂に会いました」
土方の眉が動いた。見上げる山崎の顔をとくと見つめる。だがすぐに再び背を向けると、もう一度宙に向かってぶんと剣を振った。
「・・・・先日とは?」
「きっかり十日前です」
「それで?」
「・・・・・・それだけです」
「ふん・・・・・・」
土方は刀を頭上に翳して鋭い目で眺めた。
「なぜ今更言う?良心が疼いたのか」
「別にちょっかいを掛けた訳じゃありませんよ。店の前で偶然出くわしたんです」
土方は全身で山崎の方に向き直ると、柄を握った右腕をゆっくり体の前に伸ばした。
「・・・・・・報告しなかった理由は?」
そのまますっと下ろされた刃先が山崎の鼻先数センチの距離で迫り、ゆっくり山崎の顎を掬った。
切っ先から真っ直ぐに続く土方の顔から目を離さぬまま山崎は答える。
「非番だったからです」
切っ先がぶるりと揺れた。
「貴様・・・・・・」
今度こそ土方の目が燃え上がった気がした。
氷の様に冷たい生の鋼の感触。
威圧的な沈黙が刀を通してぴりぴりとふたりの間を行き来する。
山崎は自分から後ろに下がり剣から身を離す。沈黙の儘の剣では攻撃にも脅しにもならない事を相手に分からせる為だ。
────── 腹の探り合いなどあなたには似合わない。副長、あの人を手に入れたいなら、もっと真正面からぶつかっていきましょうや・・・・・・。
一礼し、さっさと立ち上がった。一方的な終了の合図に、行き場を無くした刃先は本人の意思に関わらずその身を引く他は無い。
背後で刀身が鞘に納められた音がした。
「あ、そうだ副長」
出ていく前に山崎は振り返って土方の足の辺りに目を据えながら言った。
「桂の奴、また万事屋の旦那と一緒でしたよ」
返事を待たずに廊下に出、ぴっちりと障子を閉めた。
足早に廊下を戻りながら、自分の向こう見ずな大胆さを讃えたり呪ったり。
だけど・・・・・・
爪を噛みながら山崎は考える。
彼らが深い関係にあるのかどうかまではまだ解らない。今、土方の言葉や桂に対する行動を思い返すと、土方が一方的に桂に懸想して
いるであろう印象を山崎は受けた。
土方の激しい求愛に、桂の心は揺さぶられ、いつか解かされるのか。
山崎は縋る様な手付きで頬に残った薄い傷跡に触れた。たちまち甦るあの夜の一時。彼の剣が我が身を愛撫の様に一撫でしていった。流した
一筋の血は彼に応えた絶頂の証だ。
・・・・・・どうやらもう自分達は遠に裏切りだの欺瞞だのを往き過ぎた場所に居るらしい。気付かぬ内にボーダーラインは越えていたのだ。
だったら・・・・・・
理性の最後の一欠片が心の中で囁いた。
────── 桂さん。間もなくあなたは俺と三度目の出会いを果たすでしょう。