(5)




 山崎は今まで以上に仕事に勤んだ。他の者達が嫌がる様な雑用も自ら進んで引き受けた。
 桂の事を忘れる為では無い。
ひとつは攘夷志士の行動により目を光らせる事によって 桂の姿・情報を取り逃がさない為。もうひとつは土方に借りを作らない為であった。
 山崎の変化に気付いた隊士は多く居た。だがそれらの者は彼の煩悶など知らないし、当然土方との一件など知るよしも無い。ただ山崎の仕事ぶりに感心し、 喜ぶのみである。彼が多く立ち働けばその分自分達が楽を出来たからだ。こうして周囲の信頼を確固たるものにし、 罪悪感を紛らわせている事も事実であった。
ミントンのラケットはもう一ヶ月以上も部屋の隅に置き去りにされている。





「こりゃ雨が降るどころか彗星が落っこって来らぁ」

 縁側で寝転んでいた沖田はアイマスクをずらし、せっせと屯所の庭の草むしりに精を出す山崎の背中を眺めて呟いた。

「おいコラ。邪魔だどけ」

銜え煙草の土方が、寝そべる体を通りすがりに足で邪魔臭そうにぐいと蹴った。

「──── ザキの奴、一体どうしちまったんだと思います?土方さん」

 土方はちらっと庭に目を遣った。雑草で一杯になった籠を抱え、山崎は立ちあがって首に掛けたタオルで額を拭いながら輝く太陽を見上げてニカッと笑う。 その姿は田舎に農業研修にでも来た地味な若者そこのけであった。

「・・・さあな。仕事してくれるのなら別にあいつがどうしようが俺は構わん」

「恋人でも出来たんですかねィ想像出来ねぇや」

面白そうに沖田がくつくつと笑う。土方は無表情で煙を吐き出し、灰を縁側から地面に叩き落した。

「ま、あいつが真面目なのはもともとですがね。・・・・・そういや最近アンタらふたりは似てますぜィ。と言うか山崎の方がアンタに似てきましたよ」

土方は鼻で笑った。

「仕事中毒な所か?結構な事だ」

沖田はニヤニヤと土方を見上げた。


「いやいや目が似てるんでさ。素面な癖に目の奥はギラギラした野生の獣みたいな。・・・・・近頃のアンタらは全く同じ目をしてまさぁ・・・・・」







 山崎はいつもひとつの信念を持って街を歩く。
 街でよく見掛ける袈裟姿。それを丹念に追えばいつかは必ず彼にぶつかる。彼と土方との事は結果として自分にあらゆる手掛かりを与えてくれた。
 袈裟に編み笠、そこから覗く白い頬。片側に纏めた長い髪。
 幾度の落胆を繰り返し、闇に無理矢理灯した希望の光に縋って山崎は数十日を過した。




 希望と失意の数十日後。──── 雑踏の中に彼を見た。

 袈裟姿でも無く、編笠も被っていなかった。あの月夜の晩と同じ軽やかな単衣姿。一目で見破った。心に染み付いた黒髪と白い頬。確かめる必要さえ無い。
 山崎は走り出した。人の海をふわふわ漂っていく黒髪を見逃すまいと目を凝らしながら、走った。
 今日は一人で良かった。自分も。あの人も。
 追い掛けて会って何をしようというのか。そんな事は考えない。ただ会いたいのだという想いだけが自分を走らせている。どうにかぎりぎりまで雑踏が この身を隠してくれたらと願わずにはいられない。
 ひょいと彼が左手の路地に入った。山崎は速度を速めて後を追う。
 路地に入ると両側に迫る壁のせいで急に周囲が薄暗くなった。遥か前方に逆光になった彼の背中が見える。
濃い青色の裾が角の板塀を右に曲がった。その先はここの路地の丁度真ん中の四つ辻になっていて、確か三方向が行き止まりになっていた筈。

────ツイてる。

興奮した山崎は唇を舌で一舐めし、先回りすべく傍のより細い道に飛込んだ。
ここを通り抜ければあの人が。
息を切らして四つ辻に出た。

 いない。

 あっさり姿を見失った。
 山崎は狼狽えた。また彼に出し抜かれたか。気付かれていたとは思えないのに・・・・・。
息を切らせ、呆然として二度三度と周囲を見回す。そこにあるのは裏路地の湿った空気と、午後になったばかりだと云うのに近くのスナックから もう聞こえて来る調子っぱずれなカラオケの歌声だった。


・・・・・私は父と手を繋ぎ 真赤な空を眺めてた
    小さな心は攫われた
    赤い夕陽は教えたの きっと私は恋をする
    それはあなたに出会う前 二年(とせ)足りない秋でした・・・・・


 芸者上がりの売れない演歌歌手がようやく当てた、その頃流行りの歌だった。酔っ払いの間の抜けた歌声が風に乗って蛇行しながら路地の隅々まで流れては消 えて行った。


 ────自分に犬と同じだけの嗅覚があったなら。いやそれには彼の匂いが必要だ。
 匂い・・・やはりあの懐紙は捨ててしまうのではなかった。自分の血がべったりついてしまっていたけど、彼の匂いと交われるならそれは震える程の悦びにな ろう。ああやはり副長が妬ましい。 あの人の手首を掴み、あの人の脈打つ場所にくちづけた副長が。副長と何度も会ったのだろうか。橋の下で見た様な奇妙な密会をもう何度も重ねている のだろうか。だったら、ああだったら桂さん僕の心はもう張り裂けてしまいそうです・・・


 その時ぬっと背後から音も無く伸びてきた白い手が、山崎の口を塞いだ。

「・・・白昼堂々付け回すなら相手は選んだ方が良い・・・」

 低い声が耳の中に流れ込むのと同時に、すっと真横から首に短刀の切っ先が当てられる。
 隊服に包まれた胸と背の窪みが汗でさっと湿った。
 山崎は震えた。恐怖では無く驚きと歓喜に打ち震えていた。

 唇に彼の手の平、剥き出しの首に彼の真剣。

 知らず知らずの内に目から熱い涙が一筋二筋流れ出て、口を塞いだ相手の手をとめどなく濡らした。
 生々しい程の感情の発露が恥ずかしい。いつもあなたは容赦無く僕の心を丸裸にしてしまうのですね・・・

「・・・っ・・・・・・」

 もごもごと唇を動かすと、相手はほんの少しだけ口を塞ぐ手を緩めた。冷たい空気がどっと流れ込み濡れた頬と唇を冷やして乾かす。
ごくりと唾を飲み込み、やっとの事で辿々しく言葉を吐き出した。

「・・・あなたに・・・会いたかった・・・」

 白い指がぴくんと動いた。思いがけない言葉に驚き反射的に緩んだ腕の中で、山崎はゆっくりと振り向いた。
 涙に濡れた顔を一目みて桂は目を見開いた。

「・・・貴様・・・山崎・・・?」

 覚えてくれている。 自分の名が桂の唇から発せられ山崎の胸は狂喜に踊った。
 短刀を握った彼の右手首を掴んで引き寄せた。相手が知っている人物だった事につい警戒を緩めた桂はふいをつかれ、よろけて板塀に腕と背中を押し付けられ た。

「何・・・を・・・」

 互いの顔が今までで一番近い。自分を睨み付ける闇夜程に黒い筈のふたつの瞳は、路地の薄暗がりの中で蒼みががってさえ見えた。
既に消えてしまった頬の傷が彼の視線によって開かされ、新しく血を流す様だった。
 逃げられないように体ごと押さえ込むと、胸と胸がぴったり重なった。ふたり分の荒い呼吸が互いの耳にとろりと流れ込んだ。

桂が身を捩った。と、山崎の体が動き、唇を奪った。

桂の手からガランと短刀が地面に落ちて転がった。
山崎の瞼の裏がじんと痺れた。
顔を背けようとする桂に山崎は角度を変え、口づけを深くする。

「・・・ん・・・っん・・・っ」

 自然に開いた相手の唇の隙間からふいを衝いて舌を押し込んだ。
 山崎は最早相手が『攘夷志士 桂小太郎』である事を忘れていた。
焦れ続けた愛しい想い人。舌を絡め捕るとそれにつられて互いから湿った息が漏れ、早い鼓動が重なってさらなる熱を生む。
 山崎は全身と唇と舌を使って桂を拘束する。どうにも顔が見たくて、薄目を開けて見た。桂は眉の間にきゅっと皺を寄せて耐えていた。
きつく閉じられた白い瞼が、絹糸を切り揃えた様な儚気な睫毛がふるふると揺れている。
柔らかい唇、熱く濡れた舌、心地好く潤んだ口腔。甘い甘い唾液。もう頭の中がバラバラに弾けそうだ。


「・・・は・・・ぁ・・・っ・・・」

ようやく離れた互いの唇、頬の近くまで濡れていた。

 山崎は息を切らし、細い体を抱き締めたまま首筋に顔を埋め、板塀にごつんと頭を打ち付けた。
じめじめとした路地の真ん中はまるで水槽の中の様だ。視界は薄暗く耳は塞がれ、ただ激しく全身を打ち続ける心臓の音と荒い呼吸がふたりを揺さぶる。
その間にもカラオケの歌声は止む事を知らず、延々繰り返されるフレーズは丸で時間が止まったかの様に耳の奥に流れ続けた。


・・・・・ あの日の口づけ夢に見る あなたに投げた赤い糸 
     赤い夕陽に伝えよう  私は死んだあの時に 
     あなたに抱かれて息絶えた  
     私の心は海の中 夕陽に染まった海の中・・・・・
 
 


この俗っぽくも切ない歌を自分は死ぬまで忘れないだろう。

「・・・・・好きです」

しっとりした髪に唇を摺り寄せ囁いた声は擦れていた。

「あなたが・・・・・好きです・・・・・」

 ────── あなたが好きです ───────

 情熱を辿る様に吐き出した言葉の痛み。さあしかと聞いて下さい美しい人。
 彼は何も言わなかった。だが自分はそれを恨まない。甚だ強引な遣り方だったにせよ、自分の心は確かに伝えたと確信したから。

 山崎は夢見心地でふらふらと拘束を緩めた。
桂は体を押し退ける様にして離れた。今だ信じられない様に指で自分の唇に触れ、きっとこちらを睨んだ。彼の目元が朱に染まり、瞳は不安定に揺れている。

「あ・・・・・・」

 山崎が一歩近付くと、相手も一歩離れた。塀沿いにじりじりと山崎から後ずさって行く。

「桂さん・・・・・!」

 行ってしまう、と手を伸ばした瞬間桂は今一度睨みつけ、さっと身を翻した。
 呼び止める暇も無いまま小さく走り出したかと思うと長い髪と着物の裾が風を孕み、塵箱に足を掛けてあっと言う間に塀の上に飛び移っていた。
 そのまま向うに消えてしまうのかと思いきや、桂はくるりと向き直り、山崎の足元に何か細長い物を投げて寄こした。

 そして今度こそ去った。

 山崎は投げられた物を屈んでゆっくりと拾い上げた。

 それは短刀の鞘だった。

 傍らに目を遣ると、主を失い忘れられた抜き身のままの短刀が落ちて光っていた。鈍く輝く迷子の片割れ。それはこのじめじめとした
路地の中で唯一光らしい光を放ち、荒野に咲く一輪の花となっていた。


 山崎は短刀を手の中でしばらく見つめた後、鞘にしっかりと納め、ぎゅっと胸に抱き締めた。






-Powered by HTML DWARF-