(6)
もうすぐ梅雨を迎えようとする大気は、涼しさの後にどこか湿り気を肌に残して行く。暑くもなく寒くもない。どこか宙ぶらりんな、すべてが中途半端な時季
だった。
桂は部屋の窓辺にもたれて座り、ぼんやりと外を眺めていた。見えるのはただ雪柳の植え込みと、高い板塀に下半分を真直ぐに切り取られた薄水色の空だけ
だ。通りの喧騒もここまでは届かない。桂は存分に季節の匂いを味わう事が出来た。
「───── 銀時」
傍らの座卓で栗羊羮をむさぼり食う人物に、桂は外を眺めたまま話しかけた。
「うー?」
頬をもごもごと動かしながら銀時は生半可な返事をした。今は桂の相手よりも栗羊羮の方が大事なのだ。
「この前会った山崎という男なんだが・・・真選組の・・・」
「やまふぁき?うーふぁれそれ?」
口一杯に頬張ったものをごくりと飲み込み、茶を飲み干して銀時はぷはっと息を吐いた。
「えー誰だっけ山崎?何か聞いたことあるよーな・・・ああジミー君ねジミー君」
「・・・ジミー・・・?」
「そう、地味だからジミー君」
しれっと言って銀時は五切れ目の羊羮に楊枝をぶすりと突刺した。
「そのジミー・・・いや山崎なんだが、どんな奴なんだ?」
銀時は畳に後ろ手を突き、楊枝に刺した羊羮片手に考える仕種をした。
「んー俺もそんな親しい訳じゃねえけど、確か真選組で監察か何かやってるとか何とか。ああ見えて結構優秀らしいよ。やっぱ監察なんて奴ぁ
あんな地味で目立たなそーな奴が向いてんじゃね。真面目そーだし」
そう言ってぽいと口に羊羮の残った端を放り込む。
「いや、まあ監察らしいのは元よりこっちで知ってはいたが・・・・・その・・・・性格とか」
「
何でそんな事知りたいの?何、新たなテロ計画か何か?あ、オメッさてはジミー君ユーワクして情報手に入れちゃおうとかじゃないでしょうね!!そんなハニー
トラップ許しませんよ銀さんは!!ちょ、もしかしてこの羊羮もハニートラップぅ?甘い物だけに!」
どんだけエロテロリストなんですかオメーはよ!頬張りながら銀時は楊枝を桂にビシッと向けた。
「何かあいつじろじろヤラシー目でお前の事見てたもんね。だけどあんな真面目そうな奴引っ掛けたら後が面倒かもよん」
「貴様何か話が変な方向に行っている気がするのだが」
「いやいや、実はああいうのが一旦弾けたらコワイ訳よ。 ────んで結局あいつがどったの?」
「ん・・・いや・・・」
桂は言い淀んだ。
「──── キスされた」
「へージミー君たら顔に似合わず大胆ーん・・・ ってエエエエエッッッッッ───!!!」
銀時の口から楊枝がぽろりと溢れ落ちた。
そのままの姿で数秒間固まっていたが、ようやく我に返るや否やガタガタと座卓を押し退け、桂の傍まで勢い良く匍匐前進で寄って来る。
銀時は桂にのし掛かからんばかりに詰め寄った。
「ちょ・・・何それぇ?つかそんな平気な顔で言う事かぁ?」
「平気に見えるか?これでも十分動揺したんだが」
淡々と言う様子はとても動揺している風には見えない。
動揺しているのは銀時の方だ。
「あのジミー君がねぇ・・・」
何処にでも居る至極有り触れた風貌のその男に、銀時はあまり注意を向けた事は無かった。
あの山崎が一時の気紛れや遊びでそんな大胆な事を(しかも指名手配犯に!)するとはとても思えない。銀時の想像ではきっと彼は前々から心の中で熱烈に恋慕
い思い悩んでいたのだ。
あの大人しい顔の下に隠し持っていた情熱の大きさに、銀時は身震いさえする思いだった。
更にその情熱の相手が桂だいう事実。驚愕やら放心などをあっさり突き抜けてしまった。言うなれば背後から突然刺された様な感覚だ。
加えて信じられないのは桂の態度だ。
元々喜怒哀楽をあまり顔に出さない男ではある。桂自身が言う通り、本人は十分動揺してはいるのだろうが、その見た目の落ち着きっぷりに銀時は呆れるのを通
り越して呆然とするほか無かった。
あーこいつは昔からこんなヤツだったな。
桂は他人に対して細やかな心配りを忘れない一方で、自分に向けられる感情というものに極端に疎い。今回の件に於てもまるで『歩いていたら溝に落っこち
た』とでも言わんばかりの体だ。
ほとんど命懸けの告白をした男と、それを向けられた本人の十億光年程も隔たった意識のギャップに銀時は山崎が不敏でならなかった。
「・・・・あいつは言ったのか?その、『好きだ』とか何とか」
桂は記憶を辿る様に一瞬目を中にさ迷わせ、コクリと頷いた。
「・・・・で・・・・お前はどうしたの?」
「どうもせん。吃驚してそれどころじゃなかった」
「じゃ、今はどうなんだよ」
桂の瞳がぴたりと止まった。
「・・・・わからん」
「・・・・おいおい。わからんじゃねーよ。悩むまでもねーだろーが」
「・・・・そうなのか?」
桂はきょとんとした顔をした。銀時は手で額を押さえた。
「お前ねー、真選組の奴にしかも男にコクられてそれはねーだろ?お前今も昔もむさ苦しい男共にばっか囲まれてるから、どっか麻痺してんじゃねえの」
「そうかもな」
ぽつりと呟かれた言葉はとても冗談で言っているようには見えなくて、銀時の胸は心なしかざわついた。
桂は銀時に背を向け、重ねた手の上に顎を乗せて再び外を眺め始めた。
銀時はごそごそと桂に擦り寄って後ろから桂の肩に顎をのせた。重い、と身を捩られたが構わずにそのままひっついた。
「・・・・放っとけよそんなの。どうせ山崎だってお前が受け入れてくれるなんて鼻から思っちゃいねえよ。どう考えても無茶だろ。真選組とお尋ね者の
攘夷党首様だぜ?有り得ねえよ」
有り得ねえよ。
銀時は桂の髪に顔を埋め、もう一度呟いた。
「ザキがとうとうキツネに憑かれちまった」
そんな噂が屯所中を駆け巡り始めて、もう一週間になる。
今日も山崎は屯所の池のほとりに突っ立って、濁った水を眺めている。なぜかいつもミントンのラケットを片手に携えてはいるが、大抵それは何の役目も果た
さない。ただ瞬きもせずに無表情に水面を眺め続け、時折鯉が鰭でぴしゃりと波紋を作ると、その時だけ目を見開いてニヤ〜〜と笑う。
次の瞬間、はっと我に返った様な顔をして、また再び池を凝視する事を続行する。
ある別の日には、突然庭の真ん中でミントンの素振りをやり始める。その激しさ、素早さと来たら親の敵なんてものでは無い。ラケット一本で竜巻を起こさん
とでもする如く、もう型も何も滅茶苦茶、ただ空に向かって闇雲に振り回すのだ。
それをなぜか朝っぱらから始めるものだから堪らない。
フンッッッ!!フンッッッ!!フンッッッ!!フンッッッ!!と云う掛け声とビシュンビシュンとラケットの風を切る音が屯所に響き渡る。
うるさいと止めさせるにもその鬼気迫った本人の姿に恐れをなして、誰も声が掛けられない。
延々続くかと思いきや、突然嵐が止んだ様にぱたりと体を止める。そのままじーっと突っ立っている思うと、いきなりラケットをカランとその場に投げ捨て、
後を振り返りもせずにふらふらとどこかへ行ってしまう。見ている者はもう何がなんだか分からない。
お祓いに連れて行くべき、いやまずは病院じゃないか、隊士達の間でそんな会話が交わされる。
「アイツ、目がもう完全にイッちまってら」
「ほら、いつぞやの夏にも来てもらった、拝み屋だったっけか?アレにもう一回拝んでもらったらいいんじゃね」
何となく誰もまだ本気の心配をしている様子では無いのは、山崎が地味だからと云う理由ばかりでは無い。
山崎の最近の仕事っぷりが『完璧』なのだ。
雑用から書類の提出、報告の類は勿論の事、監察の任務に於いては彼は闇となり影となり、一分の隙も無い仕事を毎夜の様にこなして来る。
先日も真選組が長い事追っていたあるテロ集団の資金ルートの詳細が山崎の十日に渡る張り込みの末に判明し、一斉検挙に漕ぎ着けられた所だった。
ここ最近の山崎の仕事に対しての貪欲さに更に拍車が掛っている。任務を言い渡されると丸で水を得た魚、いや今正に昇天せんとばかりに山崎の目は輝いた。
日中魂の抜けた様な目で縁側に腰掛けている山崎に、誰かが恐る恐る近付いて副長が呼んでいる事を告げると、山崎は半笑いで見開いた目をかっとこちらに向
け、相手がビクゥッと身を竦ませる頃にはもう山崎の背中は小さくなっているという有様だ。
それでいてきっちりと始末をつけて来るのだから、自動的に他の仕事もスムーズに回るし、隊士達も楽出来るしで、いかに山崎がキツネに憑かれていたとして
も、真選組にとっては今の所メリットの方が多い訳だった。
今も山崎は池のほとりで一人、魂の抜け殻の様にじーと佇んでいる。その背中はさっきからピクリとも身動きしない。
それを障子越しに眺める土方の手にあるのは、今朝山崎から提出されたばかりのやたら分厚い報告書だ。
山崎はこれをたった一晩で仕上げたらしい。提出期限の五日も前だ。
──── ふーん・・・・
新しく煙草に火を点けて、土方は目の前の庭にいる山崎の背中と今までの作文調から一転、専門書の様な書式の報告書を交互に何度もゆっくりと見比べた。
立ちこめる煙の向こうでは、いつもの様に突如スイッチが入ったらしい山崎が、手にしていたラケットを目に見えない霊でも叩きのめすか如くビュンビュン
ビュンビュン振り回し始める。
山崎は今日も異様で、そして元気だった。
「・・・・キツネ、ねぇ・・・・・」
独りごちて煙を吐いた時、縁側を沖田の暇そうな口笛が近付いて来た。近頃流行っているやたら辛気臭い歌詞のこの曲が、土方はどうも苦手だった。
イラッと来て眉を上げた時、山崎がなぜか凄い形相で沖田の方を振り返った。
沖田は気にも留めず、両腕を頭の後ろで組んだ格好で土方の部屋の前を通り過ぎ、ぶらぶらと歩いて行った。
口笛が段々小さくなる間、山崎はその場にただ茫然と固まっていた。
腕を伸ばして勢いよく障子を閉めた。ついでに手の中の報告書もばしんと閉じて、煙草を咥えた儘ごろりと畳の上に寝転がった。
キツネ。
キツネに憑かれたと皆が屯所中で自分の事を噂しているのを、山崎は知っている。そうだ、俺は憑かれてしまったのだ。恋だの何だのを通り過ぎて、憑かれて
しまったのだ。
キツネなんてとんでもない。
強く、しなやかで、妖しい、美し過ぎるあの人に。
頬を撫でた刃の冷たさ、首筋に突きつけられた切っ先の鋭さ、そして透き通りそうに澄んだ眼差しが、夜な夜な自分を愛撫する。
薄暗い行燈の光の中で、山崎は蠢きのたうち、涙に暮れた。腕の中で黒い鞘の短刀が恋する人の代わりに山崎を慰める。
──── あの日の口づけ夢に見る・・・・あなたに投げた赤い糸・・・・
──── 私の心は海の中・・・・夕陽に染まった海の中・・・・
桂との夢の様なひと時から数週間。
余りにも大それた、下手すればその場で切り捨てられていても文句は言えなかったであろう状況だった。
サイテー俺。死んでしまえ俺。
そんな己の大それた軽率な行動に対する反省も、彼の柔らかさやら匂いやら体温やらが生々しく蘇って、心も頭の中も体の奥もねとねとした物で一杯になって
しまった今は、もうそこに後悔なんて文字は無くなっている。
あの時、ああしなければ、彼の唇を知る事なんて一生無かった。
それどころか二度と相まみえる事すら叶わなかったかもしれない。
どうしたって互いの立場は変わらない。だったら。
山崎は自分を正当化する事で何とか自我を保っていた。
やがて山崎の心の中に、一つの意志が息づき始める。
もう一度彼に会いたい、いや会うべきだ。
筋を通そう。無礼を謝罪し、その上で改めて気持ちを伝るべき、それが男だ、山崎退だと。
山崎は短刀をぐっと握り締める。愚かな男の愚かな決意を手の中の小さな刀に込めて、山崎は今日も憑かれて生きる。
愚かではあっても、己の道を信じた者に天は僅かな微笑を投げ掛ける事もある。
あの人がいる。
雑踏の中に漂う編笠、白い頬。あの人だあの人だ。
がくがくする足に力を込めて山崎は走り出す。見逃すまいと人ごみの間を縫い、体がぶつかりそうになりながら、彼の所まで懸命に泳いで行く。
もうすぐで傍に辿り着こうとした時、桂がこちらを向いた。途端に彼はぎょっとした表情になって、小走りに駈け出した。
「桂さん・・・・!!」
ゼエゼエと息を切らし、山崎は必死で桂を追い掛ける。
「ま、待って下さい・・・・!話を・・・・!ちょっとだけ・・・・!」
歩行者にあちこちぶつかり、行く手を阻まれそうになりながら、山崎は声を張り上げた。
桂は片手で編笠を抑えながら足を速め、徐々にスピードを上げて行く。靡く黒髪を捕まえる気持ちで山崎も走る。
「お、お願い、き、聞いて下さい・・・!僕は・・・・!あの時の・・・・事は・・・・!」
幾人かが振り返った。自分が今とても恥ずかしい事をしているのは分かっている。でももうどうでも良い。彼と話さなければならない。
「僕は・・・・!あなたが・・・・!!」
振り絞って叫んだ時、すぐ背後からブィーンと云う音が近付いて来て、山崎の袖をかすった。
転びそうになってつんのめった山崎の前に、行く手を阻む様に一台のスクーターがザザザッと停止した。
「あっれーザキ君じゃん〜〜」
山崎の背中はすっと冷たくなった。
白い着物に白い癖毛、だらりとした声と共に、くいっと上げられたゴーグルからとぼけた瞳が現れる。
「隊服のまま独りでぶらぶらして、もしかしてサボリ〜〜〜?へーいけないんだ〜〜〜」
「い、いや・・・・」
銀時の背後で桂の背中はどんどん小さくなって、雑踏に紛れて消えて行った。
「暇なら今から俺とパチンコにトゥギャザーしない〜〜?んでソーセージ一本くらい奢ってくれたら、サボリの事黙っといてあげるよ〜〜〜?」
言いながら上目遣いでニヤニヤ笑うその眼の奥に、何かぞっとする様な光がある。
動揺する頭の奥で山崎は思い出した。
此処が万事屋のすぐ近くだと云う事に。
己が飛び込んだ流れの深さに、山崎は今更ながらそっと身震いをするのだった。