醒めた春

 



 東の方向から群青色の光が迫って来る。夜明けが近かった。なのに空はとても暗かった。

 わるい予感がして、急ぎ足になった。

 
 早く帰らなければ。温かな寝床が恋しかった。

 
 未だ目覚めない廃墟の様な街角、傍を風が黒い蛇の様にぬるぬると走り抜けて行く。
 自分だけが夜へ夜へと逆戻りしている様に感じる。
 

 ああ嫌だ・・・・・・早く帰らなければ・・・・・・



 やがて当然の様に、一点の赤い光を塗り込められた闇に見つける。
 それが奇妙なジグザグを描きながらこちらに忍び寄る。


 早く帰らなければ・・・・・・


 後ずさろうとした所で影に手首を掴まれる。
 二言三言、或いはそれ以上、言葉を交わした気がする。次に気付いた時にはすぐ傍の倉庫の様な廃屋に連れ込まれ、床に散 らばった藁屑の上に押し倒されていた。
 自分が何か不用意な一言を口にしてしまったのかもしれない。だがそれを悔やんだりする余裕は無かった。
 廃屋の黴臭さと煙草の香りに息苦しくなる。胸を愛撫され、脚を絡めて顔中を舐めまわされる様な口づけをされる間、 わるい予感が的中した事に奇妙な満足さえ覚えていた。


 ああ嫌だ・・・・・・


 獣の様な呼吸に押し潰された頭の中でぐるぐると回り続ける。

 冷めた茶の底に溜まった澱の様な、濁った夜明け前の一時間。


 ああ嫌だ・・・・・・

 早く帰らなければ・・・・・・













 早春の昼下がり。銀時はパチンコ屋への行き慣れた道をぶらぶらと歩いていた。
 まだ桜には早い時期で、道の並木は茶色い枝を空に突き刺しているばかりだ。今日は朝から肌寒い。この陽気では花が頭上を 薄赤く染めるのはもう少し先の話だろうと思われた。
 帰りにいちご牛乳でも買って帰ろう、どうせそれ位しか買える物無いだろうし、とぼんやり考えた所で、どこからか自分の名 を呼ぶ聞き慣れた声が耳に入った。

 きょろきょろと見回すと、右手の茶屋の中からひらひらと白い手がこちらに向けて動いている。

「こっちこっち」

 中を覗くと声の主桂が、がらんとした店の戸口を入ってすぐの椅子に腰を下ろしている。目の前に並べているのは彼には珍しい 熱燗の酒器だった。


「おめー昼間っから酒かよ」

 目元と頬をアルコールで薄く染めた桂は、呆れ顔の友に頓着せずにおっとりと猪口を傾けた。

「あーここ数日体調が優れず今朝がたまで寝込んでおってな。ずっと閉じ籠りっぱなしも何だし、散歩がてらこうして出て来た のだが、今日は何だか肌寒いだろう。やはりと言うか体が冷えてしまってな」

「お尋ね者がのんびり散歩すんなっての・・・あ、俺団子ね」

 銀時はお茶を出しに来た店員に注文しつつ、隣のテーブルから椅子を引っ張って来て傍に腰かけた。たかが団子とはいえ外食 など今の財布の中身から考えて無駄遣い以外の何物でもなかったが、桂と言葉を交わすのはかなり久し振りで、体調が悪かったと 言うものの口調もしっかりしている彼を今更心配する必要も無く、小さな暇潰しにでもしてやろうという軽い気持ちだった。


「お前、しばらく見なかったね」

「だから体調が悪くてだな」

「いや、その前から」

「・・・・・・」

聞こえなかったのか桂は返事をしなかった。特に内容の無い、返事が必要な会話でも無かったので、話題はそのまま流れた。

 
 目の前の桂はいつもの通りの鬱陶しい長髪に羽織といういでたち。だがその羽織は彼には珍しい黒色で、細い体に心なし面やつれした顔のせ いか、 もっさりと重苦しく見える。確かに病み上がりらしくはあったが、その癖なぜか足元は素足に下駄履きだ。
 運ばれて来た団子をもさもさと頬張りながら、何とはなしにそこまで観察した時、突然桂は何かを思いついた様に顔をあげた。

「ああ、そう言えばしばらく立て込んでおったな。最近汚い手口の過激派連中に手を焼いておってな。あれは始末が悪い。 ほら、貴様もニュースなんかで見ただろうが、あの○○橋の爆弾テロ、あれも最初、犯人側が事もあろうにこっちの名で犯行声明 を出しおったのだ。でも攘夷党にしてはやり口が残酷過ぎると言う事で、当たり前だ、あんな未開の原始人共と一緒にしないで もらいたい、まあそれで幕府も捜査にかなり慎重だったらしいが、結局その派手なやり口が仇になって足がついた様だがな。 とにかく、こっちへの疑いは早々に晴れても締め付けは厳しくなるし、昼間に出歩く事もままならぬ事が続いて、 今やすっかり宵っ張りの生活だ」

彼は抑揚の無い調子でつらつら喋り、そして話し始めと同様、唐突に黙った。


「・・・・・・それって健全なお尋ね者の生活そのまんまじゃん。・・・・・・って言うか・・・・・・」

 銀時はじっと桂の顔を眺めた。

「って言うか、お前もしかして熱があるんじゃね」

「熱・・・・・・?」

「だってなんかお前・・・・・・」

 しっかりした口調ながらもどこか焦点が合わぬ様な桂の様子。アルコールか、熱か、わからぬ何かに浮かされているのか、 そんな彼の姿は銀時の体の奥を妙にくすぐっていた。それはたった今喉奥を落ちて行く団子の一切れの様に甘く、 べたべたとした質感を持っていた。
彼が髪をかき上げ、気だる気に投げ出した足の脛が寒さで青白くなって大きく裾から覗いているのを見た時に、 その質感はさらに更に強くなった。
 赤味が差したせいで元の乳白色が際立った頬、耳朶まで薄く染めて、そんな様子で昼日中、熱燗など優雅に嗜んでいるのを見ると、 さびれた茶屋がまるで湯屋の二階の様にも見えて来る。


「熱がある様に見えるか・・・・・・?」

 
桂は青白い顔をぐいと銀時に近付けた。

「・・・・・・そう見えるか・・・・・・?」


 銀時は口の中の団子を飲み込んで、目の前の白い富士額に自分の手を当てがった。桂はされるがままになって目を閉じた。
彼の額は最初はかっと熱く感じ、銀時の手の冷たさに馴染んで直ぐに生温くなった。

 感想を言おうと銀時が口を開き掛けた時、店の中が急に翳った。
 戸口から二人のすぐ傍まで差しこむ四角い光の枠の中に大きな黒い影があった。銀時の背中はひんやりとした。
いらっしゃい、と奥から店員の声が響くと影はゆらりと大きく揺れた。
店の暗がりと混じった影は引き摺る様な靴の音をさせて近づき、なぜかすぐ傍で止まった。


銀時は顔を上げてじろりと睨みつけた。

「・・・・・・何か用?おまわりさん?」

 言いながら銀時は内心相手の姿に少なからず驚いた。
 充血した目に大きな隈、無精髭のせいか顎が尖って見える。何となくくたびれた隊服、ポケットに両手を突っ込んだ気だるい様子。 いつもこざっぱりしている姿とはまるで違う。

 その男、土方は血走った眼で無言でじろっと銀時を一瞥した後、直ぐに桂の方へ視線を移して、微かに桜色をした顔から順に裾から覗いた足 まで、 さっと無遠慮に視線を這わせた。
 背中の冷気がすうっと腹の底へと広がるのを銀時は感じた。

 
 やがて土方はのっそりと動いて、売店も兼ねた奥のレジ台へ向かって行った。小銭を無造作に台に置き、 低い声で煙草を言いつけている。
 彼は受け取った箱のセロファンを僅かな間でも惜しむように破り取り、忙しなく火を点けた。
 目を閉じ誠においしそうに深々と吸い込み、恍惚の表情でゆっくりと吐き出す。灰色の煙がゆらゆらと天井の暗がりに吸い込まれ、甘酸っぱ い匂いが漂った。
 銀時はそっと横目で隣を窺った。
桂は猪口を握ったまま頬杖をついてぼんやりしている。彼の瞳は戸口から差しこむ陽の光を受けてただ空虚に輝いていた。 幕府の狗など丸で居ないかの様に、銀時の存在さえ忘れてしまったかの様に。

 土方が再びのっそり歩いて、床から一段上がった座敷の縁に腰を下ろした時、銀時は自分が一連の相手の動作に眺め入っていた のに気づいて嫌になった。自堕落な男の咥え煙草姿、彼から目が離せないのは、その粗野な魅力、男臭く暑苦しい色気のせいだ。


 腰を落ち着けた土方は、煙を吐きながら相変わらずこちらをじろじろ眺めている。銀時は睨み返した。

「・・・・・・感じ悪いおまわりさん、俺が何かしましたかー」

「・・・・・・ああん?・・・・・・」

 しゃがれただるそうな声が土方の喉奥で唸った。

「ヤクザな目つきで睨まれて怖いんだけど。ってかいつもに増して怖いんだけど!小さい子が泣いちゃいますよー」

「・・・・・・こっちは丸二日寝てねえんだ・・・・・・。好きにさせろや・・・・・・」

 土方は血走った眼を前髪の奥でギョロリとさせた。


 一方桂は黙って細い指で虚ろに自分の髪を弄っている。そんな桂を土方は見ている。頭から爪先まで舐め回す様に。狗は獲物を追い詰めた気 でいるのだろうか。あれが警察の眼か。
あれは雄の眼と云うものではないのか。

 冗談じゃない。オスもメスもあるものか。銀時は立ちあがって桂の腕を引いた。

「行くぞ、コラ」

 桂は引っ張られるままになってよろけた。それを銀時に支えられる態勢になりながらもそもそと財布を探る。
そんな間も惜しくて、銀時は桂の手から財布を奪った。

「・・・・・・あ・・・・・・」

「お代は置いたからねー」

銀時は硬貨を掴みだして乱暴に置き、奥に向かって声を掛けた。


 そうして急ぎ足で出口に向かおうとした時、桂の右袖がテーブルの上を擦った。ちりん、と音がして硬貨の一枚がコンクリート の床に落ち、ころころ転がって土方の足元で止まって倒れた。
 坐ったままのっそりと腕を伸ばして、土方はそれを摘み上げた。
 銀時は構わず店の出口に足を向けた。

 指に挟まれた硬貨が、淡く差しこむ陽光を受けて、暗く濁った空気の中輝きながらゆっくりと桂の前に差し出され、 桂の手が機械的に伸ばされるのを、銀時の視界の端が捉える。
と次の瞬間土方はその手を掴み、黒髪から覗く耳に唇を擦らんばかりに顔を寄せて何事か囁いた。
 同時にそれまで茫洋としていた桂の顔に稲妻の様な光が走り、切り裂く眼差しで相手の顔を睨み付けて、掴む腕を振り払った。


 桂は早足で戸口の方へ向かう。

「行こう」

傍を擦り抜けざま銀時にぼそりと呟いた。


 銀時も続いて外へ出た。薄暗い茶屋の中から急に視界が開け、まるで夜と昼が反転した様に感じる。陽の光が眼を刺した。
 スタスタと近づいて銀時は桂の隣に並んだ。喉には先程食べていた団子の甘さがまだ残っていた。


「あーあ」

 銀時は空を振り仰ぎ、わざとらしく大声で嘆息した。

「俺まだ団子残ってたんだけど!」

 言いながら横目で盗み見ると、桂の顔には刃の眼差しは今は無く、既にいつもの無表情に戻っていた。ただ頬と耳朶の赤味だけが白い肌の上 にまだうっすらと残っていた。

「串丸々一本残ってたんだけど・・・・・・!」


 後ろを振り返ると、今しがた出てきた店の戸口に、先程の男が煙草を咥えたまま突っ立ってこちらを見ていた。
 びゅうと突風が起こって、傍らの電柱に括りつけられていたデリヘルの看板が派手な音を立てて倒れた。桂の髪は大きく靡き、 その隙間から覗いた唇が何かを呟いた。「芋侍め」。銀時にはそう聞こえた。

 二人は無言で歩き始めた。後ろを振り返っても、建物の影に隠れてもう男の姿は見えなかった。
 歩き続ける桂の腕を銀時は掴んだ。ぎくりとした色が走った彼の顔に、銀時もぎくりとした。
 人ごみの往来の真中で二人は黙って立ち尽くし、しばし見つめ合っていた。

 銀時は今度は彼の手首を掴み、引き摺って大股に歩き出した。
 痛い、と言う声が聞こえた気がしたが、無視をして、更に指を骨に食い込ませてただ歩き続けた。

 そうでもしないと、この寒い春の風が吹き荒れる中、人々の目の前で自分が彼に何をするか、分からなかったからだ。




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