置き去りの季節
膝ががくんと折れてはっと目覚めた。ざりざりと土を踏む足音と声が近くなって来る。交代の時間だ。高杉は目を擦り、ちらちら揺れる松明
の火の眩しさに一つ顔を顰めた。
「城からの返信は」
交代に来た仲間に擦れ違いざまに問う。
「何も」
月も星も無い夜空、山麓の黒い巨体が眼下にとぐろを巻いている。 そよぐ夜風の中に乾いた土や枯れた草木の匂いはもう殆ど
無く、代わりに青臭い匂いと熱気が混じっている。
山のほぼ中腹に位置するこの場所に陣を張って七日。
空と草木と、土の塊しかない場所。季節だけが正しく通り過ぎて行った。
宿舎は疎開中の農家から借り受けた屋敷だった。だが高杉達、まだまだ新参者扱いの兵士達は母屋の使用は許されず、傍の大きな納屋で
寝起きする日々だった。
入り口を潜ると馬糞や黴、藁の匂いがむっと鼻に突く。床に敷いた筵の上に所狭しと寝ている男達の体臭や息遣いにいつも空気
が淀んでいる。鼾や歯ぎしり、鼻啜りなどいつも静かに騒がしい。だがそれも直に慣れてしまう。此処に帰る時はいつも
疲労困憊の状態なので、気にしてはいられないのだ。雨風をしのげるだけでも有り難かった。
空いた毛布を探して、高杉は床に寝る仲間達の体を苦労して跨ぎ進む。毛布は人数分は無いので、一枚を見張りの交代順に二、
三人で使うのだが、タイミングが合わないと狭苦しい思いで共寝する羽目になる。それが嫌なら毛布無しの寒い思いをする事に
なり、今の季節それはまだ避けたい所だった。
眠りが痛みを伴う程に高杉の頭や瞼を刺していた。今夜はいつもより体が重かった。ぬるい様な冷たい様な今の季節の夜風に
なかなか体が馴染まなかった。
幼い頃はこんな季節の変わり目にはよく風邪を引いて寝込んだものだ。冷たい布団で一人寝かされた畳の部屋はいつもより広く、
静けさに耳がきんとした。閉まった障子が青白く発光して、その光の中に布団ごと自分の体がふわふわと浮かんでいる様に思えた。
廊下の方で静かな足音がしたかと思うと、障子さらさらと開いて、明るく散った光の中に優しく微笑む母の姿がある。その手に
は薬や粥を乗せた盆を携えている。陽の光に透けて輝く黄色い水薬の甘苦い味、ぬるめの粥の柔らかい舌触り、額にそっと乗せら
れた母の手の心地よい冷たさ。
熱く重苦しい瞼の隙間に見える優しい笑顔に、安心して自分はいつの間にか寝入ってしまう・・・・
幸福な思い出に満たされかけた時、隅の壁際で桂と銀時が一つの毛布でぴったりと寄り添って眠っているのが目に入った。
まるで幼い子供の昼寝の様な穏やかなあどけない寝顔だった。
昔、桂の隣で眠るのは他でもないこの自分だった。
銀時が来て、桂の隣は自分だけのものではなくなった。
そうして何年も過ぎた。
故郷を去り、戦場という場所に身を置いても、彼らは幼い頃と同じ様に振る舞った。
桂はずっと自分のものだった。笑顔も、怒った顔も、全てが自分のものだったのだ。全き幸福は故郷の村で、父母と先生と、
そして桂と共に永遠にあるべきだった。
誰かの盛大なくしゃみに高杉は我に返った。
運良く空いた毛布を見つけて、のっそりと引き寄せた。
潜り込んで体を伸ばすと、手足が小さな悲鳴を上げた。
ぽかりと開いた天井の穴から何も無い夜空が自分を見降ろして来る。それを見つめ返しながら、高杉はぼんやりと考える。
明日には城からの返信は届くだろうか。来なければ再び使者を差し向ける事も検討しなければならない。上の奴らはそんな事
考えもしないで、今度はいつ花街に繰り出せるだろうかばかりを気にしている。
高杉は目を閉じ、眠ろうとする。睡魔が濃くなるのを感じながら、尚考える。
今夜の天気から見て、今日と同じ様に明日も晴れるだろう。行軍に相応しい機会であるのに、命令が下りない今は動けない。
その間にも遠くの前線では今夜も夥しい血が流されている。
でも動けない。
季節だけが通り過ぎて行く。この瞬間にも夏が始まる。