夢の途中


「怪我で手を煩わせたり、何度かあいつに迷惑掛ける事が続いてしまってな。更に間の悪い事に、俺がある女性と懇意だと勝手に思い込んで、 なぜかあいつが怒って、」

 古びた黄色い電灯の下、桂は白い顔を紅潮させ、ちゃぶ台を挟んだ向いに座る坂本に、身振り手振りを交えて饒舌に話して見せる。

 久しぶりに江戸の町に降り立って、坂本はいの一番にこの昔馴染みを訪ねた。だが、前と住所は変わっていないという話だったのに、 そこに人の住んでいる気配は無く、電話も繋がらず、彼の消息を知るまで数日を要する事となった。
 三日目の夜になって、やっと探し当てた商店街の裏手に連なる小さな平屋の一つ。カラカラと開いた擦りガラスの玄関の引き戸の中から、 済まなかった。探して来てくれたのかと覗かせた顔は背後の電灯の光の影になったせいか、いつもより更に青白くやつれて見えた。

 坂本は彼の髪に手を深く差し込み、寝起きの様にとろんとした顔を覗き込んだ。

「・・・・何があったんじゃ。おまん、少し痩せたのではないか」

すると彼は目にいつもの静かな輝きを湛えて言った。
閉じ込められているのだ、と。

「軟禁状態というのかな。もうひと月になる。ああ食糧とかはあいつが運んでくれるから、特に不自由はしておらん」


 台所と狭い二間の古い住まい。桂が台所でいそいそと酒の支度を始めている間、見渡した部屋はちゃぶ台一つあるきりで、 畳は塵一つ落ちていないが、頭の上にぶら下がる黄色い光の電灯の傘には、薄らと埃が積もっている。半分開け放しになった襖の向こうには夜 具が一つ、 たった今抜け出て来たばかりの様に、掛け蒲団が斜めに捲れた状態で敷かれていた。

 こんなものしか無くて済まぬが、と桂は安酒とスナック菓子を傷だらけのちゃぶ台にずらり並べ、二人酌み交わし始めたが、 そうすると徐々に桂の覇気の無い物憂げな顔は生き生きと輝きを取り戻していった。


「・・・・・もちろんそんな事実なんて有りはしないのに、なぜそんな考えに至ったのか、俺にはてんで分からぬ。彼女に手を貸したのは、 以前俺の方が助けてもらった恩義があるからだ。その人は未亡人でな、独り身になって大分経つのだが、今でもご主人一筋な人で、 俺など眼中に無いというのに、・・・・・とにかく何を言ってもあいつは聞く耳を持ってくれなくて、俺は文字通り殺されてしまうかと思った くらいだ。 終いにはこんな所に押し込められてしまって、まあこれであいつが満足するのならと、軽く考えておったのだが、」

 はきはきとこれまでの出来事を肴のスナック菓子を振り回す様に身振りを交えながら語り続け、時にはそれを忙しなく口に運び、 時にはさも不味そうにのろのろと咀嚼する。

「だが肝心のあいつと来たら、一体いつ来てくれるのか全くの気紛れなのだ。朝晩続けて来たかと思えば数日放って置かれたり、 それが昼間なのか夜中なのか、今こうして喋っている間にもひょっこり帰って来るかもしれんし、しかも酒の匂いをさせている事もしょっ中 で、」

 語れば語る程桂の身振りと口調は益々熱を帯び、身を乗り出したり伏せる様にしたりする度にたっぷりとした黒髪がつやつやと光ってちゃぶ 台に零れ落ち、 頬や目元を薄赤く染め、黒い瞳は星が散った様にきらきらと輝く。

 坂本は相槌を打ちつつ、時折桂の杯に酒を注ぎ足してやり、手がコップにぶつかって零れた箇所をティッシュで拭いてやったりしながら耳を 傾けていた。


「そんな時は最悪だ。有る事無い事で殴るわ蹴るわ首は絞めるわ、いや、最初は壁を蹴飛ばすくらいで済んでおったのだが、お隣さんから苦情 が来たのと、一度蹴った拍子にあいつが箪笥の角に小指をしたたかにぶつけてな。いやあの時は大変だった。昨日もひと悶着あった所だ。ほ ら、ここ」

そう言って桂が右袖を捲って見せると、白い肱にくっきりとつけられた赤黒い痣が坂本の目に飛びこんで来た。


「・・・・おまんは逃げ・・・・いや外には出んのか」

 桂は小さくかぶりを振った。

「一人での外出は禁止なのだ。あいつと一緒になら出られるのだが、外でもやっぱり色々難癖つけて来るのが鬱陶しくてな。 お陰でもう一週間もお天道様の光を浴びておらん」

「こっそりと出る訳にはいかんのけ」

「出た事がばれれば、あいつはまた癇癪を起こすだろう。そもそも現金も持たされておらぬし、それに・・・・ よっぽど俺を出したくないのだろうな、最初此処に来る時に、・・・・・・・を」

桂は言葉の途中でもごもごと口ごもった。

「ん?」

「・・・・・・を・・・・・てられ・・・・・た」

「はて?」

坂本は身を乗り出して耳を澄ます。


「下帯を全部、捨てられてしまった」


「へ・・・・へえ・・・そうけえ・・・・」

 ずり落ちそうになったサングラスをさり気なく直し、坂本は取りあえず言葉を繋いだ。
 桂は気まずそうに膝の上で手をごそごそとさせて一層頬を赤らめる。坂本は咳き込みそうになるのを抑え、思わず桂の胸の下辺りに目をやっ た。

「え・・・・っとじゃあ今は?」

「着けておらん。何もナシだ」


平然と桂は言い切った。坂本は手からコップを取り落とす様にごとっとちゃぶ台の上に置いた。

「無しでも出られん事はないが・・・・芋侍に見つかって追われた時の事を考えると、・・・・ちょっと色々不都合があるだろう?」

 そう言って桂は澄んだ黒目がちな瞳をくりくりとさせて坂本を見つめるのであった。


 暫くして、酒の追加をしようと言って桂は立ち上がった。
 空になった食器類をひとまず流しへと持って行き手早く洗っていると、じゃあじゃあと流れる水の音に交って、居間で坂本が携帯で何やら話 をしている気配がした。
 さっきと同じ様な安酒を盆に乗せ、再びちゃぶ台の前に座った。

 話題は坂本の商いへと移っていた。更に最近の銀河情勢の話になった所で、どこか息を潜めた様なタイヤの音が窓の外で聞こえ、 部屋の中に白い光が斜めに差しこんだ。
 途端に桂は言葉を止め、さっと顔が凍りついた。

 素早く坂本は立ち上がった。

「さあヅラ、急いで支度せよ。さっきわしの船から車を回す様に頼んでおいた。今すぐわしと此処を出るぜよ」

「え・・・・・」

桂は驚いて坂本を見上げた。

坂本の懐で携帯がピリリと鳴り、素早く出た。

「あー分かった分かった。今出るきに。ちょっと待っちょってくれ」

慌ただしく携帯を仕舞う坂本に、桂は呆然とした顔で何度も首を振った。

「・・・・駄目だ、それは・・・・銀時に無断で・・・・」

「ええからええから。もう今夜はあいつも此処には来ん。一人寂しく過ごすより、船でのんびりわしと昔語りでもした方が楽しいぜよ」

「・・・・でも・・・・銀時が・・・・」

恐れの色を見せる桂の手を引く様に坂本は更に急き立てる。

「大丈夫じゃ。あいつにはわしからちゃんとよう言っとく。ヅラはちょっくらわしの船に遊びに来とるだけじゃ、とな。船なら幕府に追われる 事も無いし、なーんの心配もいらん」

でも・・・・と桂は視線を落とす。

「じゃあ実力行使じゃ」

 明るく言い放ったかと思うと、坂本はひょいと桂を抱き上げ、肩に担ぎ上げた。

「・・・・・ちょっ・・・・」

驚いて桂は足をばたつかせる。

「大丈夫大丈夫。ちゃーんと下帯も沢山買うちゃるから」


 待て、駄目だ、肩の上で弱弱しく抗議を続ける声を無視して坂本は急いで部屋を出る。玄関を開けると前に止まっていた大きな黒塗りの車か ら男が走り出て来て、後部座席のドアを開けて待機する。坂本は桂をそっと中に降ろして座らせ、素早く自分も乗り込んだ。

 ドアが閉まるのと同時に車は急発進した。


 桂は振り返って出て来たばかりの家を見つめる。
 ああ明かりがつけ放しだ。ちゃぶ台の上も片づけておらぬし、どうしよう。

 車ががくんと揺れる。と、肩を掴まれて倒れ込み、もう目の前にはぼんやりした闇しか見えなくなっていた。

 坂本の腕の中で骨が軋む程に抱き締められ、首筋を噛みつく様に吸われていた。




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