夏の詩・朝、港にて
黒っぽい海水が足元に重たげに押し寄せる。
朝靄の中で鉄のクレーンが重い音を響かせて交差し、荷揚げの男達の威勢の良い掛け声が飛び交っている。
高杉はコンクリートの防波堤に佇んで、睡眠不足で隈の出来た片目でぽつぽつと水平線に浮かぶぼんやりした船の影を見つめている。
ねっとりとぬるい潮風がくすんだ瞳に湿った膜を作り、時折海鳥が気紛れに視界の中をはらはらと舞いながら横切った。
高杉はがんがんする頭で湿気た煙を灰色の水平線に向こうに吐き出しながら、ぶらぶらと歩き出した。
防波堤を降り、トラックが撒き散らす騒音と排ガスを避けてコンテナの周辺を歩いていると、ふと聞こえて来たものがあった。
僕らは手を繋ぎ どこまでも行くだろう・・・・
小屋のラジオから流れて来る、子供達が歌う合唱曲。
思わず立ち止まった高杉の胸の中で、覚えのあるメロディーが忘れかけた夏の日を呼び覚まそうとしていた。
夏の或る日、吉田松陽率いる村塾一行は、社会科見学と称して汽車で一時間程の大きな町を訪ねた事があった。
近くの農家が出してくれた荷馬車で子供達は「遠足」に心躍らせながら停車場に向い、初めて汽車に乗る緊張で可笑しいくらい
カチコチになって乗り込んだ。
汽車が走りだすと興奮と感動に子供達は頬を紅潮させて、茅葺の家々や牛の群れが車窓を早い速度で通り過ぎる度に小さく感嘆の声を上げる
のだった。
その地方で一番大きな町は村とは全く別世界の大都会で、多くの子供の度肝を抜いた。
行き交う大勢の人々、着飾った紳士や貴婦人、
立ち並ぶガス灯に凸凹の無い真っ直ぐな石畳の歩道、石造りの立派な建物の数々、馬車や人力車に交って、時折自動車が皆を追い越して行っ
た。
両親に連れられたり、講武館の行事でもう此処を何度も訪れた事がある高杉は、汽車も町の様子も特に珍しくも何とも無かった。
同じく講武館の生徒として来た事がある筈の桂が、何か目を引く物が見つかる度に銀時と興奮した様子で語り合うのを後ろを歩きながら眺めて
いた。
町を訪れた目的の一つに、最近完成したばかりという公会堂の見学があった。
町でひときわ目立つ場所にある、大きくはないが御影石の美しい建物で、
幾つものアーチ型の窓と高い天井、彫刻を施された柱が並ぶそこの広間には、当時はまだかなり珍しかったグランドピアノが一台置いてあっ
た。
さすがの高杉も本でしか見た事がなく、皆目を丸くして高い天窓からの光を受けた高貴で優美な姿に溜息を吐いた。
その日は偶然京から「えらい音楽の先生」がこの公会堂の視察に訪れていた。
青白い顔でひょろりと背が高く痩せ形の冴えない風貌で、眼鏡越しに子供達に気弱そうに微笑みかける様子はどう見ても「えらい先生」には
見えず、
今から考えるとまだ随分と若かった。
松陽とは顔見知りなのか、二人で何か親しげに話をしていた。
どういういきさつかは分からないが、その音楽教師による歌のレッスンが急遽行われる事になった。
子供達はグランドピアノの前にぞろぞろと並ばされ、譜面と歌詞が刷られた藁半紙が配られたが、
もっと色んな物を見て回りたい子供達にとっては迷惑な話でしかなかった。
その教師は子供達の渋々といった態度も気にならない様で、まずはお手本に歌って聞かせるからと、自らピアノの前に座った。
最初に響いたのは吃驚するほど高く澄んだ音、続けて幾重にも重なった音色が高杉の全身を包んだ。
と、その細い体のどこから出てくるのかと思う程力強い声で、堂々と教師は弾き語り始めた。
夏の或る日 雨が止んだ
小鳥が歌い始めたら 君の呼ぶ声がした・・・・・
さあ皆さん、私の後に続いて歌ってみましょう!
初めて聴くピアノと高らかな歌声に圧倒されて静まり返っていた子供達は、教師の明るい声に我に返った。
歌いましょうと言われても、皆で歌うという行為がどこか気恥ずかしく、ぼそぼそと声を出しつつも、一部の子供達は隣と突っつき合いなが
らくすくす笑い合ったり、
居心地悪そうに下を向いたりしていた。
だが子供達を導く様に教師の力強い歌声と細い手が鍵盤の上を踊り始めると、徐々に空気が変わって行った。
涙を捨てた 瞳の中に虹が掛る
そして僕らは走り出す 夢を掴みに
下を向いていた子供達は少しずつ顔を上げ、ぼそぼそとした声は直ぐにはっきりとした歌声になった。
いつの間にか皆の瞳はきらきらと輝き、声を張り上げて歌い、松陽も笑顔を浮かべて一緒に歌っていた。
僕らは手を繋ぎ どこまでも行くだろう
海の向こう 空の彼方 それとも宇宙
歌いながらそっと盗み見た桂の横顔は晴れ晴れとし、瞳は歌う喜びで満ち溢れていた。
皆の溢れる歌声はピアノの音色に合わせて、夏の明るい日差しが差し込む高い天井の窓までどんどんと駆け上がって行く。
・・・・ いつも授業が終わると、雨が降っても晴れても、時が来たとばかりに皆一斉に外に飛び出して畦道を駆けた。
銀時はいつも先頭を切り、負けじと高杉と桂が後に続くのだが、途中高杉が遅れを取ると、桂は必ず待ってくれた。
髪を翻して振り返り、笑顔で手を差し出す。
高杉、さあ早く。一緒に行こう
二人は揃ってむせ返る緑の中を真っ直ぐに駆け出して行く。
間奏の途中で、銀時がさっと隣の桂に頬を寄せた。二人は微笑みながら何事か囁き合ってから、
瞳を探り合う様に一瞬深く見つめ合った。二人は素早く前を向き、何事も無かった様に再び歌い始めた。
・・・・ 緑溢れる森、芒の野原、枯れかかった向日葵畑、何処でも手を伸ばす先には小さな背中、風に踊る長い髪、振り返る笑顔があった。
桂はいつも何があっても、高杉を待っていてくれて、二人で揃って走り続ける。それは毎年必ず夏が終わり秋がやって来る様に、
約束されていた事だった。
年若い音楽教師は、その日何らかの魔法を掛けたのだろうか。
子供達は塾の行き帰りに習った歌を皆で合唱しながら歩き、また高杉の胸からも長い事離れなかった。
その教師もまた、松陽と同じく後の寛政の大獄で逮捕、投獄され、処刑された者の一人であった。
岸壁の方で高らかに汽笛が鳴った。コンテナの影から船の舳先がゆっくりと現れ、旗の向こうに見える海原へと漕ぎだして行った。
高杉は地面に白い紙屑の様に散らばる鴎の間を足の向くままに歩いた。
やがてコンテナ群を抜け、人気の無い桟橋に出た。
高杉は煙管に新しく煙草を詰めた。
薄雲にざらついた空の下の、真っ直ぐで単調なばかりの水平線を霞んだ目で眺めていると、
さっき耳にした歌が胸の中に低くざわざわと蘇り、桟橋に打ち寄せる波の音に合わせて鳴り響いた。
すぐに忘れる筈だったので、この煙管を吸い終えるまでは好きにするがいいと、高杉は自分の胸に向かって呟いた。
そして僕らは走り出す 夢を掴みに
僕らは手を繋ぎ どこまでも行くだろう
海の向こう 空の彼方 それとも宇宙