逃げた小鳥


 桂小太郎は走っていた。

 人の波をかき分けすり抜け、八百屋の前を、市場の脇を、色んな店の立ち並ぶ賑やかな往来を周りを見もせずに。
彼の長い髪は吹き流しの様に青空にはためいて、風の通り道を描いていた。

 走っているだけではなく、逃げていた。

 会いたくなかった相手から。顔を見た瞬間に止まった時間の呪縛から。心を突き抜けた己の感情から。
 いつもの様に「真選組」に追われているのなら、もっととっくの昔に軽やかに捲いてしまっている筈なのだ。
 今はどうだ。重苦しい脚、乱れた息。裾がまとわりついてふらふらする。まるで女にでもなったみたいだ。

 振り返って見遣った人波の向こうに、こちら目指して必死の形相でまだ追って来る姿が目に入ってぎょっとした。

 馬鹿が。

 桂は再び前を見て走りつつ口の中で呟いた。

 馬鹿が、馬鹿が、馬鹿が ────





 土方十四郎は走っていた。

 髪をなびかせ遥か前方を行く背中を見逃すまいと。
 世間によく知られた隊服の人間がただ一人必死の形相で全力疾走している姿は注目を集めた。
しかし特に怒号も無く後からパトカーが来る気配も無く、何らかの事件が起ったとはあまり思えないその様子に人々は眉を顰め不審そうにはし たが、 それでも次々に道を開けた。

 馬鹿が。

 彼は逃げ、自分は追う。このまま行けば、何処かは分からずとも二人共同じ場所に行き着く。それが何処なのか確かめる為に走っている。

 馬鹿が、馬鹿が、馬鹿が ────





 目の前に林がある。
 舞い上がった黒髪の一房が木々の間に消えて行くのを、土方は見逃さなかった。
 一片の躊躇無く自分も飛込んだ。アスファルトの道から林の中へ、まるで結界を破って突き抜ける様なダイビング。

 西に傾き始めた太陽が枝葉の間から眩しく瞳を打つ。
 足元で、敷き詰められた落葉が鳴った。

 土方はいつの間にか走るのをやめ、歩き出していた。
 時折枝が鳴り、落葉が揺れる。彼らが風の方向を教えてくれる。
 それはまたと無い道標の様に思われて土方は、差し込む太陽の方向に真直ぐ歩を進めた。


 何処か直ぐ近くで、極々小さなドサリという音がした。

 土方は僅かに唇の端を上げた。


 一本の樫の木の下。
 茶色い木の根元に屈みこんで彼は、落葉の上に横たわる片方だけの白い草履を拾い上げた。
 それを指先に引っ掛けて、靴の踵で目の前の幹を蹴り上げる。生い茂る枝がザワッと鳴り、落ち葉がバラバラと降って来る。


「おい」

・・・・・・・・・

「これは置き土産か?蜥蜴の尻尾切りじゃあるめえし」

・・・・・・・・・

「それとも・・・・・・」

・・・・・・・・・

「・・・・・・形見のつもりか?」


 そう言って土方は頭上の幹を見上げた。

 生い茂る枝葉の間、幹の影に蹲る桂の影がある。揺れる葉の影のせいで、まだ飛ぶことの出来ない小鳥の様に震えて見える細い体。
 足袋だけの片足が、行き場を無くして空中に揺れている。


「き、貴様に形見など・・・・・・それが爆弾じゃなかった事に感謝するがいい・・・・・!」

 幹にしがみつきつつこちらに向かって必死に囀る小鳥に、 土方は苦笑した。

「真選組副長と攘夷党首の爆死心中か・・・・・世間的にそっちの方がデカイ爆弾だな」


 心中、と呟いて桂は絶句し、固まる。

 風が鳴り、桂の長い髪が枝葉に絡まる。真っ白な足袋が、無防備に敵を誘う囮の様に見える。
 途切れた相手の反応に焦れて、土方はいらいらと上を見つめた。ここまで追い詰められているにも係わらず、桂は降りて来ない。

「おい」

自分がこのまま立ち去るとでも思っているのだろうか。

「いつまでそこにいるつもりだ」

 返事は無い。
 外らされた瞳に宿る悲しい位頑なな意志が、苛立ちとも哀れみともつかない感情を誘い出す。

 この往生際の悪い、小生意気な小鳥めが・・・・・

 ひとつ溜め息を吐いて土方は、両腕を木の上に向かって広げ高く差し出した。


「おいで」


 桂はきょとんとしてから、すぐに目を見開いた。

「な・・・・・何を言っておるのだ貴様は・・・・・!!」

「いつまでもそこにいる訳にはいかねぇだろ?ほら、飛び降りろ」

「そうじゃなくて・・・・・!その・・・・・その手は何だ!!」

「そのまま降りたら足袋が汚れるだろ」

 しれっと土方は言って、ほら、と更に誘う様に腕を広げて来る。

 元は自分で登った木。女子供じゃあるまいし自分で一飛びに降りられる。そもそも足袋が汚れた所で何だと言うのか。
 それでも土方の目はとても穏やかで其れ故不思議に抗い難く、桂はその目に本当に吸い込まれそうになった。


 ────  おいで


 自分を待ってくれている人がいる。自分を受け止めてくれる人が、腕を伸して今ここにいる。
 その事実の閃きが、体を押した。

 伸ばされた腕に向かって投げた身が、風に乗る。小鳥はぎごちなく飛翔する。

 待ち構えていた二本の腕が、しっかりと体を受け止める。


「・・・・・全く手間懸けさせやがって」

 ようやく捕まえた桂の体。 抱き止め、耳の傍で土方が呟く。
 宙に浮き、しがみついた体を支える腕と体はとても逞しく、温かい。
 そんな相手に答えるのが悔しくて、桂は無言のままでいた。

 土方は桂を抱いたまま動かない。宙に浮いたままの両足が落ち着かなくて、桂は相手の腕の中でもそもそ体を捩った。

「・・・・・土方」

「・・・・・ん ──?」

「そろそろ・・・・・降ろしてもらいたいのだが」

「・・・・・ん・・・・・」

 土方は気の抜けた様な篭った声で返事をして、ようやく足袋のままの片足を庇う様にしながら桂の体を地面に降ろした。

 桂の体を背後の幹に凭せ掛け、片膝をつく。
 そして、まるで壊れ物を扱う様な手付きで桂の足にそっと草履を履かせた。

 ゆっくり立ち上がった土方は羞恥に目元を染める桂を見つめ、その手をぐいと引いて有無を言わさず歩き出す。

 ついに囚われた身と心。されるがままに手を引かれ付いて行く。


 冒険を夢見て、小鳥は必死に羽ばたいてみたけれど。
 拙い反抗の代償は、甘酸っぱい味の優しい手枷。
 頼みの風は、二人を同じ場所に導いてしまった。

 踏みしめる落葉の柔らかさ。

 無垢な瞳に色づき映る、秋の風。



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