煙の向こう
並木の緑の葉が湿気た風に気怠く揺れている。屯所への帰り道を歩いていた土方は、暑苦しい隊服の襟元を指でぐいと緩めた。
時間ばかりが過ぎやがる。もう梅雨が明けるなんて誰が決めた。
足の下で乾いた音を立てた茶色い落ち葉、視界一杯の満開の桜、土方の記憶ではそのどれもが既に遠い。
だが遠いからこそ鮮やかに、胸が痛くなるほど懐かしいものでもあった。
何月の出来事だったか、土方が一途に進む道の上に突如舞い降りて、行く手を阻んだ男がいた。
やがて、剣の道を行く事を決意してから、恐らく初めて、土方は抵抗出来ずに流されて生きるという苦痛と快楽を知った。
空回りを繰り返すライターに小さく舌打ちし、ようやく火が着いた煙草を咥えて、ぶらぶらと土方は歩き出した。
流れ流されている間にいつの間にか春になって、いつの間にか春は終わり、いつの間にか夏が来ようとしている。
季節が、時間が、起こった事も起こらなかった事も、吐き出す煙と一緒の靄になって、夏の光の向こうに跡形も無く消え去ろうとしている。
「・・・・・だから今日は駄目だと言っただろう。何度言わせるのだ」
突然飛び込んで来た声に、土方はぎくりと足を止めた。
「昨日はいいって言ってたじゃん。約束破るなんてさいてー。お前いっつも武士に二言は無いとか言ってる癖にさぁ」
家屋と家屋の隙間に見える向こうの通りから、声の主達がじゃれ合う様にして現れる。
土方は慌てて身を隠し、そっと壁から覗いた。
二人は表階段の影になった場所に滑り込み、桂は壁にもたれ、もう一人の男、万事屋は相手の顔の傍らに手を突くようにして、
二人は悪戯っぽい顔つきで互いを見つめている。
ここで土方はようやく気づいた。自分は万事屋の建物の丁度裏手に来ていたのだ。
「さっきも言った様に、急にバイトに欠員が出てな、他に入れる人間がいないのだ。だから、」
「お前だって俺という予定があったんじゃん、なんで断れないワケ?」
「だって今回の仕事は時給も良いし、っ・・・・」
急に声が詰まり、暫くの間しんとする。
土方は機械的に煙草を口に持って行き、一口二口吸った。
「明日まであいつらもいないし、今夜は泊まってくって約束だったのにさ、」
「・・・・・だから済まないと言っているだろう、俺が稼がないとここに手土産も持ってこれんのだぞ、」
また声が途切れて、代わって湿った音、長い沈黙、小さな衣擦れの音。壁を背にする土方の耳にはっきりと届いた。
何事か囁き合い、小さくくすくすと笑う声。
「じゃあいつ埋め合わせしてくれんの・・・・・?」
「それは・・・・ぁ、」
掠れた吐息。
煙草を持った土方の指がいつの間にかぶるぶると震えている。
立ち上る煙もゆらゆらと揺れている。
「・・・・多分・・・来週辺り・・・・ぁん、」
「本当?」
必死で頷く様な気配。衣擦れの音が大きくなる。
「ホントにホント?約束する?」
足元から揺さぶられる様にぐらぐらと体は揺れ、指先から灰が落ちる。
揺れて纏わりつく煙の中でいつの間にか土方の目から涙が流れている。
瞬きも忘れ、涙は見開いた目から頬を伝って次々と落ちる。
「約束するから・・・・だから・・・・もう・・・・」
切なく掠れた声をはっきりと拾う。まるで自分の耳元で囁かれている様に。
震える指先から足元に崩れ落ちる灰。それを追い掛けて、ぽたぽたと落ちて次々と地に吸い込まれる熱い涙。
彼の甘い囁きに合わせる様に、終わる事無く零れ落ちる灰と涙。
・・・・約束するから・・・・約束・・・・するからぁぁぁ・・・・
地面に屈んだ銀時は、落ちている潰れた煙草の吸殻を指で摘み上げて、じいっと見つめていた。
やがてぽいと放り投げて立ち上がり、
「ごめんね」
と一言、靴の爪先で溝の中にさっと蹴落とした。