子猫は暖かな海の中で幸せな夢を見る
春の日差しが眩しい程に煌めく、暖かな午後だった。
瑞々しい葉桜の緑が落すまろやかな木漏れ日にいつまでも体を委ねていたい、そんな日だった。
暇を持て余して銀時は気紛れに桂の家を訪ねた。鍵の掛っていない戸を開け、しんとした玄関の奥に向かって形ばかりに声を掛ける。
「おーい銀さんが遊びに来てやりましたよーっと」
気だるい声は奥の暗がりに吸い込まれ、小さく反響して耳に帰って来た。
銀時は返事を待たずに靴を三和土に脱ぎ捨て、さっさと上がり込んだ。
足音を響かせて廊下を渡り、がらりと襖を開けた。
薄暗い廊下とは対称的に、縁側の戸が一杯に開け放たれた、明るい明るい部屋。
色褪せた土壁、湯飲みの乗った茶色い座卓、殺風景にがらんとした畳の上に、寝そべって蹲った黒と青の固まりがある。
銀時が足音を立てて部屋に踏み込むと、その固まりはごろりと動いてこちらを向いた。
「お昼寝中の猫ですか、お前」
桂はそのままごろりごろりと転がって、銀時の足元まで来て止まった。
白い顔にまとわりついた髪の間から、ぽかりと無垢な瞳が銀時を見上げて瞬いた。
「さっきまでは、な」
桂は両腕を胸に包み込むようにして、胎児の姿勢をとる。
そんな桂を立ったまま黙って見下ろしている自分がふいにとても残酷で、非道な存在に思えて、銀時は桂の傍に屈みこみ、
取りあえずの距離を小さくする。
「じゃ、今は何なの」
自分を見上げたまま動かない桂の瞳を覗き込んだ。濡れ濡れとして何の混じり気も無い。目が開いたばかりの子猫の瞳。
桂は質問には答えず、そのままじっと銀時の目を見つめていたが、やがてふいっと顔を外らせ、再びごろりごろりと転がって、
もと居た位置まで戻って行った。
「無視するの、子猫チャン」
「猫は死期が近付くと、自ら姿を消して、誰も居ない場所でひっそりと死ぬそうだ」
桂は胎児の姿勢から仰向けになって、唐突にそんな事を言った。
「・・・・その話を読むか聞くかして知った時、俺はまだ子供だった。・・・まだ何も知らない子供だったから、ひとりきりで
死ぬのは嫌だ、猫の気持ちが知れないと、そんな寂しくて悲しい事は絶対嫌だと思った」
話が長くなりそうだ。銀時は首の後ろを掻きながら相手には気付かれない様に息を吐き、取りあえず胡座をかいて膝の上で頬杖
をついた。
「・・・・戦争中は死ぬ場所や時期なんて選べなかった。正直、戦いそのものに必死でそんな事考えている余裕も無かった。
まあ、若かったのだろうな。・・・・猫の気持ちがようやく分かったのは、戦争が終わった時だ。その時の俺はもう既に失うものは無かった。
・・・何も無かったから死ぬ事も怖くなかった。何もかもがが全く怖くなかったのだ。
周囲のすべてが一気に停止して、一人淡々と過ごしていたその間、俺は思っていた・・・・今死ぬことが出来たなら、俺は幸福者
であろうと。残していく者は誰一人居らず、悲しみも怒りもすべて焦土の下に眠る今・・・・その時俺は悟った。
猫が死ぬ間際にひとりきりになろうとするのは、弱った己の姿を晒す事を恥じるからではなく、生死を越えて完全に
孤独を受け入れる事が出来る様になったからこそではないか、と」
言葉は部屋のなかを音も無くそよぐ風に溶けて、ゆっくりと銀時の耳に届いた。桂は宙を見上げ、自分の体と畳の上に柔ら
かく落ちる陽の光にそっと手をかざした。陽に透けた手の平に浮かび上がる文字を読み取ろうとでもする様に。
まろやかな日差しの波打ち際で、銀時は黙って、陽の光に浮かんで漂う桂を見守っていた。
桂は光の白波に身を任せる。散らばった長い髪が波の動きに合わせて揺れる。
「・・・・そう悟った時から、俺は猫であろうと決めた」
やがて彼は白波の向うに消えて行くのだろう。無垢な瞳を相変わらず宙に向けたまま、自分の手に触れることも無しに。
俺は岸辺でそんなあいつを眺めてる。手を差し伸べる事も出来ずに。あいつが無防備な姿のまま波に攫われて行くのを。
「こんな穏やかな春の日は、猫の姿になって今すぐにでも安らかに死ねそうな気がする。誰も居ない場所で暖かい光の海に
溺れて、すうっと沈んで行けそうな・・・・」
言葉は徐々に小さくなり、空気に吸い込まれた。まるでこの瞬間、彼が海中にゆっくり沈んでいくように。
溺れた子猫は暖かな海の中で幸せな夢を見るのか?
そこは人間も天人も確かに居ないだろうけど。
「・・・・と、そんな事を考えていたのだが、」
かざしていた桂の右手がぱたっと畳に落ちた。
「かつて猫を飼っていたという何軒かの知り合いの話では、どの家の猫も死ぬ前に姿を消したりはしなかった。朝起きたら寝床の
中で固くなっていたとか、餌を半分食べかけたまま台所に横たわっていたとか、そんなのばかりだった。お前の呼ぶ声が
聞こえた時、丁度その事を思い出してな。そうすると猫でいる事が馬鹿馬鹿しくなってやめたのだ」
桂はそう言った後、首を巡らしてようやく銀時を見た。
彼は波の中から銀色の泡と共にふわりふわりと浮上して来た。
そのままゆらりゆらりと波打ち際へと漂って来る桂の体を受け止める為に、銀時は立ち上がった。
陽だまりと影の境目、子猫が打ち上げられる波打ち際へ。
「猫じゃなくなったなら、今は何?・・・土左衛門?」
銀時は先刻と同じ様に、桂の傍に膝をついて、顔を覗き込んだ。小さな顔の儚いまでの色白さも、露を湛えた様な漆黒の
瞳の物憂げさも、すべてが息づいている事を確かめる。
「何の話だ。土左衛門じゃない。桂だ」
桂は銀時に両手を引っ張られて抱き起こされながら言った。
「あーそうだな。こんなあったかい土左衛門はいませんよ。つか死ぬならよそでやんなさいよ。俺もう少しで第一発見者よ。
一人猫耳プレイしながら自殺なんて、通報する俺の方が恥ずかしーわ」
「だから何の話だ。猫はもう終いだと言っただろう。第一、俺には攘夷という大仕事がある。達成するまでは死んでも死にきれんわ」
「あーそうだな」
銀時は桂の体に腕をまわして、先刻まで彼の体を包んでいた幻の海の泡よりも強く抱きしめる。
彼が再び白波に攫われてしまわないように。いやいっそ彼が水底に沈むなら、共に、と。
「・・・・さて、一人猫耳プレイも終わったことだし、何かいいことしないか、
子猫チャン?」
「子猫チャンじゃない。桂だ」