晩夏


 

 真夜中に近い時刻、爽やかな夜風に涼もうと、風呂上りの桂は浴衣を無造作に着付け、中庭に面した濡れ縁に出て行った。

 ほんの数刻前まで宴の華やかな賑わいに満ちていた邸内は、夜の深まりと共にすでに静けさを取り戻している。
 当直以外の者達は既にそれぞれの部屋に引き取ったと見え、庭先に面した障子はどこも暗い。
 ようやく今日が終わった事に安堵して、桂は足裏に当たる濡れ縁の冷たい感触を楽しみながら、湯に火照った頬と体を湿り気を帯びた夜風に 気儘に晒した。


 坂本辰馬率いる快援隊が江戸に於ける当座の拠点として、さる富豪から借り受けた広大な屋敷の一角。
 桂は旧友である坂本の招きで数日間この屋敷に滞在し、文字通り下にも置かぬ歓待を受けたのである。



 桂の寝所は、この平屋建ての屋敷で一番奥まった上等な部屋に設えてあった。そこはうねうねと伸びる廊下を何周もし、 幾つもの襖障子を通り抜け、さらには苔むした坪庭の飛び石を越えて、ようやく辿り着けるのである。
 この屋敷に似つかわしい、品よく贅を凝らした部屋ではあったが、まるで隔離されたようなその佇まいに、最初桂はまるで自分が幽閉された 貴人か、はた また訳ありで土蔵に閉じ込められた姫君のような気分にさえなったものだ。
 正にいたれりつくせり、贅沢づくめのもてなしぶりに普段ごく質素な暮らしに身を置く桂はいささか気後れし、何処となく落ち着かなかった が、これが坂本なりの心尽くしであることは解っていた。
 解っていたからこその不安が、滞在中ずっと心の隅に巣食っていたのだけれど。
 しかし滞在は今日で終わり。明日には桂は攘夷に明け暮れる日常に帰り、快援隊は江戸を後にして再び宇宙へ飛び立つのだ。


 
 松の木々の間を吹き抜ける夜風が残す緑の香りを、桂は柔らかく吸い込んだ。
 それはほんの僅かな間、胸につかえる疾しさを薄めてくれた。
 しばらく濡れ縁に佇んで逡巡した後、桂は中庭に掛けられた渡り廊下の方へと歩を進めた。


 



 渡り廊下をひたひたと歩いていくと、男が錫製の酒器を乗せた盆を運んでいるところに出くわした。先程自分の部屋に運ばれて来た ものと良く似ている。

 
「それは坂本の所に持って行くのか?」

男は突如現れた浴衣姿の桂に驚いた顔をした。

「そうです。頼まれまして」

「俺が持って行こう」

桂は男の手から盆をするりと取り上げる。男は慌てた。

「いえ、それは・・・」

「いいんだ。あいつに用があって行こうとしていたところだから」

 気にするな、と桂は微笑んだ。その笑みは一瞬で男の抵抗を封じ込めた。
 男はふ抜けた顔になって、闇の中を滑るように去っていく佳人の後姿をしばらく眺めていた。






 広大な敷地の北に位置する部屋の中、坂本辰馬は二つ折りにした座布団を枕に、もう長いこと同じ姿勢のまま畳の上に寝そべっていた。
浴衣の袖を肩の上まで捲り上げ、裾を肌蹴た自堕落な姿。サングラスを取り去った両目の上には無造作に手拭が乗せられ、一見したところ眠っ ているようにも見える。

 とろとろと夜が更けていく。



 外の廊下に静かな足音がした。
 坂本は瞼の上の手拭をちょいと持ち上げた。


「ヅラか」

障子の向こうで低く穏やかな声がした。

「ヅラじゃない・・・入るぞ」


畳の上に半身を起すと、目の前の障子紙がさらさらと開いた。
今宵の涼風の様に瑞々しい桂が、夜と共に滑り込んで来る。



「そんな恰好でお前は・・・風邪を引くぞ」

 桂は酒器を乗せた盆を座卓に置く。

「あれ、おんしが持って来てくれたのけ。こりゃ悪いことしたのう」

「ついでだ」

 もいっこ用意させるき。そう言って立ち上がろうとする坂本を桂は慌てて止めた。

「俺はいいんだ。もうたくさん御馳走になった」

「・・・・そうけ」

 きちんと正座し、さあ、と桂が徳利を持ち上げた。程よく冷えた酒は桂の手から坂本の杯にひたひたと注がれ、錫製の酒器に纏わりついた水 滴が互いの指を濡らした。

 酒器を卓の上に置き、桂はしばらく言い淀んだ後、ようやく口を開いた。

「・・・・今回は色々済まなかった。せっかく招待してくれたのに碌に顔を合わすことも出来ず・・・」

 今回の滞在中、ふたりはすれ違ってばかりだった。坂本が邸内に居る時に限って桂は外に用事が出来る。坂本が出て行く頃に桂は用事を済ま せて帰って来る。顔を合わせるのは食事時くらいのものだった。江戸滞在最終日の今夜催された先刻までの宴で、ようやくふたりはまとまった 時間を共にしたのである。

「うん・・・・?無理に呼んだのはこっちじゃけ」

 坂本は手の中で杯をちらちら揺らした。その様子は気のせいか心此処にあらずに見えた。

「・・・・本当に・・・・済まなかった・・・・」

 言葉が途切れると、部屋の中のしんとした静まりがふたりを覆った。広大な屋敷の奥まった部屋、余計な物音は何一つせず、空気の流れる音 さえ聞き取れそうな程だ。
 坂本は黙ったまま、手の中の杯をじっと見つめるばかりである。ふたりはそのまま座卓の角を挟んで向かい合っていた。
 桂は所在無げに指で浴衣の褄を弄っていたがやがて指を止めて、酒を注ぎ足そうと徳利を持ち上げた。だが相手の杯の中身がちっとも減って いないのに気付いてそのまま卓上に戻さざるを得なかった。
背後の障子をそっと見遣った。ぴっちりと閉められた障子は電灯の光を一面に受けて、のっぺりと押し黙ってこちらを見ている。たかだか紙一 枚の遮断ではあるのに、そこを突破して再び夜の闇に出て行くのは至難の技に思われた。
 壁の時計は0時半を指している。


 「ヅラ」

 突然声を掛けられて、急いで視線を元に戻した。

 「おんしはそんな事を言いにわざわざ此処に来たんけ」

 淡々と問いかけられた言葉には、気のせいか僅かに棘が含まれている気がした。いつもの彼に似つかわしくない。どう答えたものかと桂は 迷った。  質問の意図を探って坂本の顔を見つめたが、問うた本人は気が無さそうに杯を見つめているばかりだ。

「ヅラ」

 また名を呼ばれる。しかしさっきとは違い、坂本は目を細め、酔った様にうっとりとこちらを見つめているのだ。

「・・・何・・・?」

「その浴衣、まっことよう似合うとる・・・」

 桂が纏っている浴衣は紅梅の上等なものである。今回桂の為に坂本が特別に誂えさせたものだ。
 張り付くような視線が落ち着かなくさせる。杯の中身は減ってはいない。先ほどの宴の酒がまだ彼を酔わせているのかと思った。
 再び会話が途切れる。もう話すことは何も無いように思われる。


「夜中に邪魔をした・・・・俺はもう引き上げるとしよう」

口早に言って、桂は腰を上げ掛けた。

「のう、ヅラ・・・おんしが此処に来るか、毎晩わしは自分の中で賭けとった」

「・・・・え?」

 思いがけない言葉に桂は動きを止めた。さっきから坂本の言葉はやけに唐突だ。坂本はふーっと溜息をつき、杯の酒を一口、口をつけた。  相手の喉仏がごくりと動くと、熱いアルコールが自分の心臓に浴びせかけられた気持になった。

「・・・・確かにこうして俺は来た。お前に一言謝っておきたくて・・・」

 上目づかいに坂本はこちらを見て来る。桂はそわそわと浴衣の合わせに手をやった。

「そうじゃ。今夜になってやっと、おんしは来た。だが・・・謝るだのなんだの、わしはそんな言葉を聞く為に待っとった訳じゃないきに」

 吐き出された言葉は静かではあったがいつもの陽気さからは程遠く、桂は目を見開いた。

「・・・・怒っているのか?」

「怒っちょるかじゃと?・・・・ああ、そうじゃな。わしは今、盛大に怒っちょるのかもしれん」

「・・・・坂本、俺は、」

「ヅラ」

 坂本はカタンと杯を座卓に置いた。

「・・・・おんしは解っちょった筈じゃ。わしが今回江戸に来たのは、おんしに会う為じゃと。・・・確かにわしはおんしに銀時との事を何も 尋ねんかったし、 おんしも何も話さんかった。だがそれは言い訳にはならんぜよ」

 膝の上で浴衣の褄を皺になりそうな程握り、桂は畳に目を見据えた。実際、何処を見たら良いのか解らなかった。たださっさと退出しなかっ た事を悔む気持と、 結局避けられなかった事態に対する諦めの気持ちが、心の中でぶつかり合って波を作っていた。

「多忙なのはお互い様よ。銀時に会いたいなら会えばええ・・・。だがわしと銀時、どっちつかずの態度のままさんざん焦らした挙句、わしと の間にまるで何事 も無かったかのように、わしの心も言葉も放っぽったままさっさと行ってしまうのは我慢ならん。・・・その一方でおんしはと言うと、」 

意味深に途切れた言葉に、桂は顔を上げずには居られなかった。

「こんな夜中ひとり、しかも湯上りの浴衣一枚で、悠々とわしの部屋にやって来る・・・」

 ふたりの間で、目に見えない閃光が空気中にピシッと放たれた。
 桂は咄嗟に背後の障子へ体を向け、立ち上がろうとした。伸びた手が桂の手首を掴み、引き戻された。
 坂本の眼が見たこともない激情に燻っていた。

 こんな坂本は知らない。

 すべて綺麗に収めるつもりで此処に来たのに。

 彼を怒らせた。

 自分のした事はそんなに罪深い事なのか。


「・・・・放・・・・せ」

「のう、ヅラ。おまんは一体何度わしの心を弄べば気が済むんじゃ?」

 桂は手首を掴み上げられたまま、必死に頭を振って否定する。
 体を捻って拘束を解こうとすると、唇が触れそうな距離に坂本の顔が近付いた。うろたえて顔を背けると、それがさらに坂本を激昴させた。
 桂の華奢な体を勢い良く抱え込み、続きの間との境の襖へと畳の上を有無も言わさず引きずっていく。
 片手で襖を乱暴に開け放ち、用意されていた寝床へ桂を組み伏せた。
 嫌と喘ぐ言葉を残酷に無視し、全身で坂本は覆い被さって来る。
押し退けようと突っ張る両手は拘束され、布団の上に黒髪が扇の様に舞い広がった
 白い頬が乱れた髪ごと捕えられ、唇が奪われた。

「辰・・馬・・・!!」

 唇の隙間から息絶え絶えに叫ぶと、なぜか口づけは益々深くなって桂は震えた。
 押し込められた舌が熱い。脊髄を直に舐め上げられた様な感覚に体が痺れる。そんな感覚には気付きたくはない。強引な口づけが恐怖の裏に 甘美を孕んでいる事に気付きたくはない。

いけない、こんなことは。

 理性の残骸をかき集めた抵抗の言葉。返事の代わりに驚く程熱くなった塊が露わになった腿に摺りつけられて、頭の奥がくらくらした。
 坂本は口づけながら桂の襟元を左右に素早く開き、肌理細かい肌に手を這わせる。指先が赤い乳首に触れると、それはまるで花が綻ぶ様に見 る見る内に ぷっくりと腫れ上がった。

「ヅラ」

 両手で頬を包んで、強引に目を合わされる。

「分かるか、・・・・わしらはもう何処にも逃げられんのじゃあ・・・」

 乱暴なくちづけに朦朧した頭の中では、そんな相手の言葉は明確な意味を成さなかった。
 だが桂は体で理解した。もう坂本は待たないと。今まで守り通して来た何かを失う覚悟さえ持って、彼は自分を抱こうとしている。
 白い腿を割り開き、坂本は熱い性器を口に含んだ。



 そんなつもりじゃなかった。罪の意識が快感の中に僅かな染みを落す。それを知りながら、拒絶の意志を上回る快楽が呼吸を濡らし、 流砂に飲まれる様に愛撫に身を任せる。

 これは仕方の無い事なのだ。どうしようも無い事なのだ。


 ──── 愛しちゅう


 荒い息と共に囁かれた言葉が一切の理性を遮断させる。



 夏の夜風がこの広大な屋敷を包み、さらに暗い奥底へ自分達を吸い込んでいく。
 漏れ出た声も、溢れて流れる涙の一滴さえも。






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