春寒
乱暴に戸を開ける音がして、廊下を踏みしめる音が建物中に響き渡った。
お客様!困ります!仲居の叫ぶ声が聞こえて来る。
階下での突然の騒々しい音に、膳の前で杯を手にしていた坂本は、襖の方にゆっくりと目を遣った。
振動に部屋がミシミシと震え、頭上で電灯の紐がぶらぶら揺れた。
足音は階段を昇り、段々と近くなって来る。
お客様!
音は真っすぐに近づき、坂本の目の前で襖がスパーンッと勢い良く開かれた。
険しい顔で仁王立ちしている銀時。
彼は座っている坂本をじろり見てから、手にしている杯、一つだけの膳に順に目を移した。
「こりゃまた派手なご登場じゃのー金時」
銀時は答えず敷居を跨ぎ、勝手にずかずかと入って来た。
「何をそんな慌てちゅうか。連絡してくれたらおまんの分も用意したのに」
坂本の言葉を無視して銀時は部屋の真ん中で周りをぐるりと見渡す。
「あいつは?」
「あいつとは?」
聞き返す坂本を睨んで、銀時は奥の押入れに真っすぐ近づいて手荒く開け放った。そこに積み重なった座布団しか無いのを見ると、
今度は部屋の隅の衝立に歩み寄って後ろを覗いた。続いて窓に近づき、がらりと硝子戸を開け放って出腰掛けから身を乗り出し、
きょろきょろと見渡した。
「ここは二階じゃ。そんなに乗り出したら危ないぜよ」
銀時は振り返り、尖った視線を向ける。
「お前一人か」
「見ての通りだが」
「こんな所でお前が一人なんて事あんのかよ」
「わしかて一人でのーんびりしたい時もあるんじゃ」
銀時は坂本にじっと眼を据え、
「あいつをどこにやった」
あいつとは、ともう一度問おうとして気が変わった。
「ヅラか」
銀時の瞳が一層険しくなる。坂本は啜っていた杯から口を離した。
「ヅラを探しちゅうか。またおまん、どうせあいつを悲しませる様な事何かやらかしたんじゃろう」
「お前には関係ねえよ」
「何があったか知らんが、もうちとあいつの気持ちも、」
「知らねえんなら、尚更首突っ込むんじゃねえよ」
銀時はもう一度部屋中に鋭い視線を遣り、坂本の言葉を無視して部屋を出て行こうとした。
「おい折角じゃ、一杯やっていかんか」
坂本が声を掛けると、銀時はくるりと振り返り、近づいて膳から酒器を取り上げ、直接口をつけてぐびぐびと煽って飲み干した。
「ごっそーさん」
不機嫌に呟いて酒器を置き、銀時は最初と同じ様にどすどすと大股に畳を踏みしめて出て行った。
足音が遠くなり、何度か乱暴に戸を開け閉めする音が微かに聞こえて、元通りに静かになった。
坂本は手にした杯をゆっくり膳に戻すと、立ち上がった。
銀時が開けっ放しにして行った窓に近づき、身を乗り出してそっと声を掛ける。
「もうええぞ」
手摺の下からごそごそと音がして、黒髪の頭が、続いて白い顔がひょっこりと現れた。
坂本は彼が抱えていた膳をまず受け取って畳に置いた。彼は手摺とその下の屋根との隙間から這い出し、坂本の腕につかまって、
よいしょと窓辺によじ登った。
「迷惑掛けてしまったな」
坂本に体を持ち上げられて畳へと降ろされながら桂は言った。
「気にするな。何も言わんでええ」
坂本は窓を閉め、桂を膳の前に連れて行って座らせた。
「さあ、飲み直しじゃ」
桂の手に杯を握らせ、新しい酒器から酒を注ぐ。
「・・・・ここを探し出して来るとは思わなかった」
「あいつは昔からおまんの事になるともう周りの事なんか目に入らなくなるからのー」
坂本は自分の杯にも酒を足し注いで一口煽った。
「本当にお前は何も聞かないのだな」
「おまんが話したくなった時でええよ」
坂本はのんびりと姿勢を崩した。
「ま、暫くあいつも頭を冷やす時間が必要ぜよ」
桂を横目でそっと見る。
「・・・・おまんもな」
桂は憂いを帯びた瞳で手の中の杯を見つめて俯いた。
節分も過ぎた名ばかりの春、肌寒い二月の夜更け、
部屋には静かで甘やかな時が再び訪れようとしていたが、坂本は今からここを出て彼を自分の船へ連れていく事を考え始めている。
今夜、彼を自分の手元に置いておくにはそれが最善の策だと考えたからだ。
杯越しに見る窓の向こうの夜空に、冷たい月が冴え冴えと掛かっている。
その月の光を浴びながら、今頃、寒い夜道を一人帰る男がいて、
自分は硝子に隔てられたこの場所で、その月と同じく躊躇いがちに輝き揺れる瞳を傍で見つめている。
自分達二人共この瞬間同じ様に夜明けを恐れ、夢を見続けたいと思っている。
だけど、二人が愛する者が同じ事をしようとするのは、決して許さないのだ。