満潮
目を覚ますと、濃紺の天井があった。見渡した部屋の中も一面に海の中の様な濃紺に満ちていて、闇とは違うその色に、
もうすぐ夜が明けるのだと分かった。
布団から起き上がろうとすると、足腰が鈍い悲鳴を上げた。桂は顔を顰めて腰を摩り、直ぐ横で寝ているだらしなく口を開けて涎を垂らし、
軽いいびきをかいている男をじろっと見た。
その無神経で満足そうな顔から布団に目を落とし、立てた膝にゆっくりと額を付けて、桂ははぁ〜〜とため息をついた。
そして、
・・・・なんだかなぁ・・・・
とぼそぼそと布団に口を埋めて呟いた。
昨夜急に銀時が訪ねて来て、一緒に酒を飲んだ。二人きりの夜更け、再会以来見て見ぬふりをしてきた彼の意図が、この日露骨な形になって
投げ出された。
伸し掛かって来る体を受け止めた時、一体今がいつで、自分達が幾つであるのか、桂は分からなくなった。
長く大きな空白が相手の背中の向こうにはっきりと見えたが、それを意識の彼方に追い遣ろうと、取り敢えず追い遣ろうと、
桂は目を閉じた。
のろのろと顔を上げて、もう一度心の中ではぁ〜〜〜とため息をついてから、桂は腕を伸ばして傍らに脱ぎ捨てられた衣類をかき集めた。
そっと寝床から抜け出すと、足をひそめて畳を横切り、そろりと襖を開けて、廊下の向こうの洗面所に入った。
手拭を湯に浸し、明かりも点けずに薄暗い中で手早く体中を拭き清めた。本当は風呂を使いたかったが、物音で銀時を起こして
しまうかもしれないと懸念して止めた。もう少しだけ、一人きりでいたかった。
さっさと襦袢と着物を身に着け、手で髪を適当に整えると、鏡の前で少々立ち尽くした。
さっきと同じように足をひそめて部屋に戻ると、銀時はまだ気持ちよさそうに眠っている。桂は財布を手にし、玄関へと出た。
ひんやりした屋外に出て戸を閉め鍵を掛けた。門を抜け、未だ海の中の様に静まり返った住宅街を早足で歩き出す。
今自分は少し感情的になっていると桂は考えていた。
とにかく今までいた場所から僅かな間でも離れた方が良い気がしていた。
真上の空は濃紺色に染まったままだったが、甲高い鳴き声と共に飛び去る鳥達を見送る視線の先では、遠く淡い光の帯が走っていた。
その時ほんの一瞬、悲鳴や雄叫び、断末魔の叫びが風に乗って桂の耳を掠めた。
戦を経験した者にとって、夜明けは前夜の戦いの惨状をまざまざと浮かび上がらせる、全てが終わった無常の時だった。
いつの時代も変わらぬ夜明けが、紫色の光の帯になって家々の屋根やビルの影を浮かび上がらせていく。
地の果てから始まりつつある厳かな黎明を、桂は小さく息を弾ませ、目を見開いてその瞳の奥に映した。
四、五分程歩いて辿り着いたのはコンビニだった。桂は機械的に明るい店内に入り、籠を手にした。
お茶の葉を切らしていたのを丁度思い出したので、それを籠に入れた。棚の間をぶらぶらと歩いて、そういえば朝食はどうしよう。
多分あいつは食べていくのだろうな。昨日スーパーで鮭の切り身を買ってきたからそれを焼いて、米を炊くほかに大根の味噌汁でも作るか。
では葱を買っておかねばなるまい、とこれも籠に放り込んだ。
冷蔵庫の前まで来て、ピンク色のパックが目についた。この着色料で一杯の、如何にも甘ったるそうな飲み物は銀時の好物らしいと再会してか
らすぐに知った。 まあこれくらいしてやっても良かろうと籠に加えた。
すぐ傍にビールが並んでいる。昨夜は銀時が酒を持ち込んで、それは飲み尽くしてしまった。今の住まいには暫く逗留する予定でいるから、
また一緒に飲む機会もあるかもしれない。と数缶取って籠に入れた。
これからも普通に銀時を招き入れようとしている自分に気づいて桂は少し驚いた。
棚の間をうろうろして、ほかに買う物も特に思いつかなかったので、レジに向かった。
袋をぶら下げて外に出ると、東の空の光の帯がはっきりと濃くなり、地面に薄い影が出来ていた。
これから真っすぐ帰宅するかどうか、公園でも暫くぶらつくべきかと、桂は歩きながら迷った。もやもやと考えて、
ビール缶やパックの飲料の入った袋はそこそこ重いし、という理由で帰る事にした。
夜が白々と明ける中を、目の前に落ちる自分の影を眺めなら桂は歩いた。時折車が気を急かすように傍を通り過ぎて行く。
足を速める事も遅くする事もせず歩き続けて、辿り着いた家の門をすたすたと潜った。鍵を出して静かに玄関の硝子戸を開けると、
三和土には銀時のブーツが片方倒れたままで置いてある。まだ寝ているのか。帰ってはいないのだな。
ぱたぱたと音がして、下だけ衣類を身に着けた上半身裸の銀時が、開いている襖の影から慌てた様子で姿を現した。
「お前、どこ行ってたの」
早口で尋ねて来る顔は強張っている。
「ああ、ちょっとコンビニまでな。朝食の材料とか色々買いに」
何をそんなに焦っているのか、怪訝に思いながら桂は戸を閉めた。
「起きたらいないから、出て行っちゃったのかと思って、」
出て行くと言ったって、ここは俺の家なのだがと思いつつ草履を脱ごうとすると、銀時が裸足のままで三和土に飛び降りた。
「お前がいなくなったと思って、それで、俺、探そうと思って」
桂をぎゅうと抱き締め、肩に顔を埋める。言葉を発し掛けていた桂は口をふっと噤んだ。
「何処にもお前がいないから、俺どうしたらいいのか、分かんなくて」
銀時はしっかりと桂を抱き締め、しゃがれた様な声で何度も繰り返す。
何処にもお前がいないから。
何処にもお前がいないから。
桂は泣きそうになって、そっと銀時の背中に手を回す。銀時は益々強く桂を抱き締めて、二人はそのまま動かない。
硝子戸から流れ込んだ夜明けの光がじわじわと溢れ、重なる二人を飲み込む。
時間も場所も超えて、海の様に深く溶け合う心に、この日の朝、暖かな潮が満ちる。