Good News
桜の蕾が綻ぶにはまだ少し間がある頃、三月の昼日中。
万事屋に現れた桂は、今日は済まない、と言って銀時に向かって小さく頭を下げた。
その頭も上がらぬ前から、今日の為にパチンコにも行けず、昼寝もおあずけ、なんなら仕事まで断らねばならぬ所で…等々、
銀時はぶつくさと彼に非難の言葉を浴びせる。
その言葉を受け入れる様に小さく頷いて桂はそっと草履を脱ぎ、控え目ながらも勝手知ったる様子で静かに中へと入って行った。
銀時は外のベランダへと出た。眩しい昼間の陽光に小さく顔を顰めつつ下の往来へと目を遣ると、雑踏の中から黒い隊服を着た男が咥え煙草
でこちらの方へ向かって来るのが見えた。
両の手をポケットに突っ込み、ゆっくりとした、だが確実に方向を見定めた足取り。万事屋の幾つか手間の煙草屋の前を通り過ぎざま、
男は店先の灰皿に咥えていた煙草を投げ入れた。
万事屋の下で男は少しちょっと立ち止まる気配がし、直ぐにゆっくりと階段を上がる足音が した。
柵の手摺りにもたれて頬杖を突いた銀時は、上まで来た黒い隊服の裾に向かって、くいと頭を玄関の方に傾けた。
「もう来てる」
その男土方は、ああ、と低い返事をして、玄関へと入った。
その後ろ姿に銀時はもう一度声を掛けた。
「好きなだけ話しゃいい。終わったら呼んで」
隊服の背中が奥へと消えると銀時は再び手摺りにもたれ、重ねた腕に顎を預けて、生気の無い目で雪が溶け出した様な水っぽい色の
早春の空を眺めた。
白と灰色の混じった色の雲が緩く渦を巻いて浮かび、太陽から降り注ぐ暖かい日差しは銀時の睫毛を通して柔らかな虹色に輝いた。
万事屋の部屋を貸して欲しいといきなり桂が言い出した二月のその日は、昨今の暖冬を一時忘れるくらい凍てついた日だった。
話し合いたい人がいる、ほんの三十分程で良い、公平で安全な所となるともうお前の所しかないのだと淡々と懇願する彼の顔は忘れ
られない。
何か桂にいつもと表情の違いがあった訳ではなく、以前、普通ではあり得ないある大きな疑惑が銀時の中に初めて芽生えてから今まで、
沼の底に潜む龍の様に密かに息を殺して来た銀時には、ただ桂の顔をまじまじと、これまでになく長い時間見つめる事しか出来なかったから
だ。
やがて思いはそれよりずっと過去の事、桂と出会ってから起こった様々な出来事へと遡って行った。
幼馴染みから盟友となって体験した甘く苦い悦び、そしてそれに必ず付いて呼び起こされる怒りと悲しみ、長く抜け落ちた年月がある
せいで、ずっと昇華し切れず燻り続ける、恥に塗り固められた青春期の記憶を。
そして今、桂と、自分に似ていると言われた男との間の始まりと終わりを図らずも見届ける事になった、第三者としての己自身の立場の事を。
下の道を自転車がちりりと通り過ぎ、雨樋に止まっていた雀がぱっと飛び立った。
ふと後ろを振り向くと、土方が三和土の所でのっそり靴を履いていたので銀時は驚いた。まだ十五分くらいしか経っていない筈だ。
玄関を出た土方は銀時をちらりと見てから煙草を取り出して咥え、ライターで火を着けた。
「…邪魔したな」
そう呟くと、ゆっくりと階段を降りて行った。看板の下から細い煙がゆらりと立ち昇る。
片手をポケットに突っ込んで、先程来た道をゆっくりと帰って行く後ろ姿は直ぐに小さくなり、 雑踏に紛れて消えた。
玄関から桂が姿を現した。
「早かったね」
銀時が言うと、桂は静かに答えた。
「もう決まっていた事だからな」
「多串君も可哀想に」
「……」
桂は銀時のそばに並んだ。
「…今日飲みに行く?」
銀時が言うと、桂はこちらをチラリと見て、ニヤッと小さく笑った。
「なんだ、慰めてくれるのか」
「…いやだってホラ…こういう時はなんつーかさ、俺だって色々気ぃ使ってるワケよ。…つーか、今慰めて欲しいのは向こうなんじゃないの」
桂はふっと真面目な顔に戻った。
「…全く、人生とはこうもややこしく上手くいかない難しいものだとはな」
「オメーはわざと自分からややこしくしてんだよ」
「…その通りだな」
遥か空にたなびく春霞を眺めながら、桂はきっとあの男との濃密な時間の事を思い出している。
一方で銀時は、 空に浮かぶ雲のいびつな形の隙間から、優しい春の風に並んで吹かれる二人を、
もう一人の自分が不敵な笑みを浮かべて見降ろしている事に気が付いている。