衝動
その男が刀を抜くのを初めて見た。
追って追われて、追い詰めて逃げられて、知恵づくの攻防戦は、もうこれまで何度となく繰り返して来たのだが。
あの夜、狭い路地裏で、角を曲がったその場所に彼は居た。
編笠と長い髪だけですべてを認識した。桂小太郎。
「・・・桂!」
噛み付く様な声で威嚇すれば、笑ったのか編み笠が揺れた。興奮しているのは俺ばかりか。癪にさわった気持ちが土方の刀を抜かせた。
切っ先を相手の鼻先に突き付ける。丁度土方の腕と刀の長さの分が二人の距離だった。
「・・・路地裏の迷い犬は血に飢えている様だ」
編み笠から覗く唇が柔らかく妖しく動いた。突き付けた切っ先は、きっと彼の息が掛って曇ったことだろう。握った刀の柄が汗ばんだ。
彼の息が刃を通して指先に伝わったかの様に。
「・・・ああそうだ。血生臭い二匹の犬がな。俺は幕府の犬、そしてお前は・・・時代遅れの負け犬だ」
桂の唇が滑らかな弧を描く。
「そしてその幕府の犬は、負け犬を追うつもりで自分の尻尾をいつまでもぐるぐる追いかけている訳か」
まるで自慰行為。
胃の辺りがかっと熱くなった。図星だ、そんな言葉を脳が全身に伝達した。考えるより早く体が動き刀が風を切った。
土方が振り下ろした直情の剣を、桂の沈着の剣が受け止めた。
ふたりの顔の間で鋼が固く交わる。ギギギと不気味な音に、土方の心は一層捻じくれる。
細い体にも関わらず、桂は土方の剣を揺るぎなく受け止め一歩も引かない。動揺の片鱗も見せず、敵の一撃を笑みさえ浮かべて、まるで悦びであるかの様に。
「刀はただの飾りじゃなかったようだな、党首さん・・・よ・・・!」
努めて冷静に言ったつもりだが、悔しい事に自信は無かった。間近に迫った彼の顔。編み笠から覗く唇とようやく現れた切れ長の瞳。
「貴様が打ち込んだから俺は受け止めた。それだけの事だ」
不遜な輝きに満ちた眼差し。
「だが今宵の貴様には迷いが無い。それが俺には嬉しくて堪らない」
「・・・どういう意味だ」
桂がぐっと刀を押し返し、後ろに飛び退く。二人の間の距離が突然広くなる。
「・・・・・さあ?」
桂は剣をすっと横向きに翳す。次の一手を受け止める準備が彼にはある。
自分は攻める。彼は受け止める。
そこに迷いは無い。
土方の中で、何か憑き物が落ちた気がした。じわりと湧き出てくる甘く気だるい情動。
自慰とは比べ物にならぬ歓喜。
「わざと自分の尻尾を追い掛けて堂々巡りするよりも、よっぽど楽しいのではないか・・・?」
翳された鋼の鈍い光が、ただでさえ艶な笑みに更なる凄味を添えた。
不覚にも見惚れたほんの一瞬の間に彼の姿は消えた。
途端にずっしりと手に食い込む鋼の重み。
土方は足元の外れかかった木の溝蓋を思い切り蹴り上げる。腐りかけのそれは、斜めに塀にぶつかって木っ端微塵に砕け散った。
その髪が、唇が誘い出す、憎たらしい劣情。
剣を介した交合の生々しさよ。見透かされた恥を掻き抱き、彼を刺し貫く夢に今夜も自らを慰めるのだろう。
迷わなければいいのか。迷いの無い衝動がお前を悦ばせるのか。
白濁に塗れた殺意が己を生かし、明日も彼を追う。