血と剣
風呂から上がった銀時は、和室の窓を開け放った。
風が濡れた癖毛を揺らして乾かす。肌蹴た寝巻の間にも風は入り込んで来て、汗ばんだ肌をくすぐった。
今日は久々にまとまった金が入って銀時は機嫌が良かった。 首から掛けたタオルで額をぐいと拭い、グラスに注いだいちご
牛乳を一口、口に含むとねっとりした甘味が口腔に広がり舌に絡みつく。
ああ、うめぇ。
思わず喉を鳴らした銀時に答える様に、何処かで犬がけたたましく吠えた。
全身で浴びる夜風に僅かに湿気が加わる。空を振り仰いで見れば、そこに暈のかかった月は無く、当てが外れた銀時は
ふんと鼻を動かして、そこに雨の匂いを嗅ぎ当てる。
明日は開店休業だなとわざわざとってつけた独り言は、着色料の甘ったるい匂いがしている。
真っ暗な空と糖分が急激に眠気を誘い出す。銀時は残りのいちご牛乳を飲み干し、大きなげっぷをひとつ吐いて、窓を閉めようと枠に手を掛
けた。
その時、湿った風が冷気を運んで来た。
時計の針が今日と明日の境目を素知らぬ振りして越える。
江戸の夜空には月も出ず星も無く、ただ暗い暗い闇が息の根を止める如
く地上に覆い被さっているばかりだ。
夜に押し潰された街は、息を潜めて眠る。張りつめた冷たい空気は獣の耳の如く鋭敏に音を伝え、指一本すいと挙げる気配も
逃がさない。
今夜の様な闇には覚えがある。
窓を閉める事も忘れて銀時は真っ黒な闇を見つめる。
遠くで何千何万の錆びた刀が崩れて地に落ちる。血の匂いの混じる風。
こんな夜は、何処かで何かが死に絶える。
視線を向けた家々の屋根の向こう、「夜」が地の底から這い出て来る音がする。
緩慢な一定のリズムを刻んでゆっくりゆっくり、ざらついた地面を引っ掻き、朽ち果てる寸前の四肢を引き摺って、それは・・・
ぼんやり連なった街燈が、幽鬼の如き姿を切れ切れに浮かび上がらせた。
前屈みになり片足を引き摺った細い体。、左手で抑えた肩から赤黒い血が流れ、彼の後ろに滴り落ちて不吉な道を作っている。
一歩進む毎に長い髪が揺れる。揺れる毎に血が滴る。
苦悶に満ちた喘ぎ、耳元で吐き出されている様にここまで届いて来る。
それはまるで獣の様で、押し殺しても押し殺しても血の流れと同じく、溢れ出て止まない。
銀時はこの禍々しい夜の気配を感じた時から、彼の事を思い浮かべていたのだ。
今すぐ外に飛び出して、階段を駆け下りて、瀕死の彼を保護したいのに、
目はどうしても彼から離れないのに、頭も体も凍りついて動かない。
助けに行く事を拒むものは、真っ直ぐ前にだけ向けられている彼の瞳の光。
恐らく彼は、ここが万事屋の真ん前だということに気付いていない。
街燈に照らされた顔は尚青白く、苦しみと疲弊に歪んでいるのにも関わらず、誇り高い眼差しは屈服を知らず、ただ淡々とまだ陽の昇らない
地の果てだけ
を見つめている。
ああ、なぜ自分は彼からこんな離れた所に居るのか。なぜ彼だけが今でも闇の中で生温い血飛沫を浴び続けなくてはならないのか。
銀時は呪っている。どこまでも気高い彼を、彼を捉えて離さない崇高な思想を、何よりも彼に手を差し伸べることの出来ない自分自身を。
月の暈に似た街燈の明りの下で、斜めに傾いだ体がさらにぐらりと揺れた。
その時、
「・・・桂さああぁぁぁぁん!」
悲壮な鋭い叫びが夜空に響き渡った。
何処からか男が飛び出して来て、地面に崩れ落ちかけた体を全身で支えた。
体はぐったりと弛緩して、同志であろうその男に身を預ける。血に濡れた腕がだらりと下がり、蒼白な顔が天を仰いで唇が無防備に半開きにな
る。
男は彼の体を抱き上げると素早く走り出し、瞬く間に闇の中へと消えて行った。
すぐに静寂は戻り、まるで芝居のスポットライトの様な街燈の明りが、誰も居ない空間ぽっかりと照らし出す。
後ろの闇に向かって赤黒い血が点々と連なっていた。
差し伸べられる手の温かさを知る事も無く、君は行くだろう。
長い髪に傷痕を隠し、目を見開いて、
何千何万の錆びついた刀を道連れに、吹き晒しの荒野に降り立つ。
自分の声は直ぐに風にかき消されてしまうだろう。
名も呼べず、愛を伝える事も出来ずに。