永遠に青い涙





 丑の刻。薄く雲が掛った月は、埃に塗れた様な色をして夜空に煙っている。
 濁った運河の水が放つ臭気と草木が伸びる青臭い生命の熱気をはらんで、夜風が江戸中を吹き抜けて行く。
 そんな夜風に乗ってやって来たかのような、奉行所より真選組屯所に届けられた急信。



 『・・・・桂小太郎捕縛セリ』 ──── 




大江戸警察直轄の牢に移送されるまでのその間、真選組側の調整役としてその奉行所へ当座の間出向する事となったのは、一番隊隊長沖田総吾 だった。

 
 



 追い回し、追い詰め、逃げられる。追い掛けっこは日常茶飯事だった。
 おかげで沖田は真選組の誰よりも桂の事を知っていた。
 こちらを振り向く編笠から覗く切れ長の瞳の冷たさ、鋭さ、時には笑みさえ浮かべる様。長い髪に透けた白い顔がまるで真昼の月の様に青空 に映える様子。 憎まれ口の応酬はまるで言葉遊びの様だった。
 その追い掛けっこの行き着く場所、更にその先にある物を知ってしまった時、彼は沖田を鉄格子の中から迎えた。




 奉行所に併設された獄舎の最奥に桂は収監されていた。
 床の上にきちんと座った彼の黒目がちな瞳は無表情な色で開かれ、沖田の視線を素通りするのだった。 


「・・・おやおや、俺を忘れちまったんですかィ。こりゃ寂しいじゃねえですか」


 獄舎の奥、四方をコンクリートで囲まれた部屋。ふたりして閉じ込められた気分になる。

 
 「ほんと、何の因果かねェ。俺達はとことん相性が悪いらしいや」


部屋に通じる厚い扉の向こうでは常に厳重な警備が敷かれてはいても、

閉じた扉の中、ここはふたりきり。

逃げる事も追い掛けることも、もう必要無い。誰かに見咎められるのを気にする事も無い今は、本当の意味でふたりきりなのだった。

 それなのに、桂の眼には何も浮かんでいない。沖田が薄闇を漉す様にじっと視線を投げかけているのに、彼はそれを受け止めてはくれなかっ た。
何か深い事情が絡んでいるのは明白だ。そうでなければこんなあっさりと牢に繋がれる筈は無い。
 決して知らされない背景、彼の胸の内。お互いこんなに相手の事を見知っているのに、秘密の共有は出来ない。


「・・・こんな処でご対面なんてお門違いにも程がありまさぁ・・・同心風情なんぞにあっさり捕まってんじゃねえや」

 腹の中にせり上がる感情が恨み言となって漏れ出る。彼に恥を晒したところで今更だと思う。いつの頃からか、彼の前では自分はただの十八 歳の子供に戻って しまう様になった。


 高い位置にある格子の嵌まった窓から、ふたりの間をぬるい夜風が横切っていった。 
 鉄格子を挟んだ彼との距離は遠かった。今までが近過ぎたのだとここに来てようやく沖田は気付く。

 そして何も始まってはいなかったという事も。






 獄舎での毎日は単調で平和だった。
 沖田は毎日彼の独房に通い、彼に会った。人払いをし、外の廊下に通じる扉を閉めて向かい合うと、少ないながらも二人だけの時間が訪れ る。真選組幹部として、 それだけの権限が沖田にはあった。
 ふたりはぽつりぽつりと取り留めのない話をした。天気の話、先日まで江戸を騒がせていた誘拐事件の顛末、最近巷で評判の団子屋が、期待 して並んで食べたものの、 たいした味じゃなかった・・・等々。
話すのはたいてい沖田の方で、桂は懐手をして時折相槌を打ち、たまに言葉を返したりはするが、自分から積極的に話す事は無かった。
 沖田は鉄格子にもたれて足を投げだして座り、背後の気配を体中で感じながら半分独り言の様な言葉の球を唇の上で転がしている。

・・・来週辺りまた台風が来やがるとか・・・ついこの間もさんざん大雨で江戸中水浸しになったっていうのに、これも異常気象なのか ね・・・

・・・あの団子はただ餅粉を丸めたやつにタレの醤油味でごまかしているだけでさァ。あれでボロ儲けしようってんだから、嘆かわしいや ね・・・


 天窓の縁には、時々名の知れぬ小鳥が羽休めに訪れた。気紛れに空から降り立っては格子の間から顔を覗かせてちいちい鳴くと、無表情な桂 の瞳に、 その時だけ仄かな温みが宿る。
その小さな来訪者が窓の縁を歩き回ったり格子に茶色い羽を擦り付けたりする様子を、飽きもせずにじっと眺めているのだった。

 沖田は遠く隔たった空を振り仰いで、彼と共に小鳥の歌を聴いた。
 
 幸福が涙の色になって沖田の胸を切なく満たし、それはいつまでも消える事が無かった。






 
 
 朝から雲隠れした太陽に鈍色の空が泣いた、その日。
 沖田は一連の煩雑な手続きで、一日獄舎に行く事が出来なかった。
 つまらない書類仕事をなんとかこなしつつ、もやもやした心を抱え、沖田は日暮れを待ち続ける。
窓の外、敷地の奥に建つ獄舎の屋根が水に煙り、蜃気楼の様に浮かんで見えた。桂も今そこで同じ雨音を聞いているだろうか。そう考えると、 無性に彼に会いたかった。
瓦が薄いのか、雨音は屯所で聞くよりも耳に大きく響いた。
 




 薄曇りの心を一日中持て余し、やっと仕事から解放された時にはもう日は暮れて、雨は上がっていた。
 外に出て晴れた夜空を仰ぎ、目を閉じてまだ雨の匂いの残る大気を胸に深く吸い込んだ。獄舎の真上に掛った月が、濡れた草木や地面を輝か せる。歩みを刻む度に 水分を含んだ砂利がくぐもった音をたてた。

 沖田はポケットに手を突っ込み、いつも使用している獄舎の裏口へとぶらぶらと歩を進めようとしたその時、獄舎の軒下から何か大きな物体 が飛び出したのが目に入った。
 それは猿の様な身軽さでふわりと地面に降り立ち、さっと周囲を窺う様子を見せてから、沖田が居る事には気づかぬ様子で反対方向へと走り 出した。瞬く間に小さくなるその姿、頭上の月が白い着物の背中と銀色の頭をはっきり照らし出したのを見て、沖田は舌打ちした。


「クソ」





 沖田は少しの間茫然としていたが、やがてきゅっと唇を引き結んで、再び歩き出した。
 獄舎の入り口で気絶している見張りの同心達をちらりと一瞥し、「ふん」と鼻を鳴らしてゆっくりと奥へと入って行った。
 中の明かりはすべて叩き壊されて、破片が辺りに散乱している。沖田はそれを踏み砕き踏み砕き、いつもより長く感じる廊下を歩いて行く。
 突き当りの扉は半分開いたままになっており、そこにも見張りの者がひとり倒れていた。
 その体を悪びれもせずに堂々と跨ぎ、扉に手を掛けて、一瞬躊躇ってから中の部屋に足を踏み入れた。


 これも無残に格子が壊された通路側の窓から斜めに月光が射し込んでいる。そのせいで部屋の中はとても白かった。 真っ暗な外廊下とではまるで昼と夜程の違いがあった。 その光は部屋の中を長方形に伸びて、半分開いたままの独房の鉄格子をくっきりと照らしていた。


 沖田は白い光を少しずつ目で追って、息を飲んだ。



月明かりを一身に浴びて、いつもと同じ姿勢で桂が座っている。

暫く言葉を失くしている間に桂はゆっくりと顔を上げた。

桂は静かな眼差しで沖田を見つめ、沖田もまた桂を見つめ返した。


 「行かないのかい」


 「行ってもいいのか」


 「それを俺に聞くたぁ嫌なお人だ」


 沖田は忌々しさを含んだ笑みを浮かべた。


 「・・・貴様に最後もう一度会ってから、と思ってな」


ゆっくりと瞬きをする桂の瞳から零れた光が揺れて月光の欠片に変わり、流れ落ちた様に見えた。沖田の心の中でそれは涙の色になった。
幸せと悲しみの混じった涙の色に。


 「そう言えばすべてをチャラに出来ると思ったのかィ・・・党首様は相変わらず傲慢なこって」


心の中に満ちた涙は溜息にも変える事が出来ず、精一杯の虚勢の言葉だけしか吐き出せない。
沖田は目を逸らし、進み出て独房の扉を一杯に開けた。
 桂の顔に躊躇いの色が微かに浮かんだ。罠かと思ったのかも知れない。
・・・そんなものに引っ掛かるタマでもあるまいに、アンタを嵌める事が出来るのなら、こんな場所まで追い掛け続ける必要なんて、初めから 無かった・・・・。
 沖田の真意を知ってか知らずか、やがて桂は立ち上がり檻の外に出て来た。隔てる物が無くなり、物理的な距離が近くなる。
彼の手、青い衣を纏った細い体、長い髪、引き締まった足首が順に自分の背後を通り抜けるのを、沖田は連続写真を眺める様に全神経で感じ 取った。


「待ちなせぇ」


草履の音がぴたりと止まった。


「俺にも都合ってモンがありましてね・・・お分かりでしょうが、このままはいサヨナラって訳には行かないんでさあ・・・」


 桂はゆっくりと振り返った。



 「・・・行く前にキスのひとつくらいしてくれても・・・バチは当たんねぇと思いますがね・・・」


 こんな時でも桂の瞳は静かでさざ波一つ立てなかった。それを嬉しく思うのかその反対なのかは沖田は自分でも解らなかったけれど、 この瞬間自分は又一歩地獄に近付いた、それだけは確かだと思った。

 壊された格子窓の残骸が、一歩近づいた桂の足の下で潰れた音を立てた。まろやかな甘い香りが微かに鼻をくすぐり、白い手が伸びて肩に触 れる。自分で言った癖に、沖田は内心で驚いた。

 半ば放心する沖田の頬に一つ、想像以上に柔らかな唇がそっと押し当てられた。

 沖田は相手の腕を強く掴んで引き寄せた。
 唇が柔らかくぶつかり、まるで誂えたかの様に納まり合って重なった。
 二人の初めての口づけは僅かな抵抗も無く、まるで初めから仕組まれていた様だった。一つになった黒い影は身じろぎもせず、静かに夜風を 受けていた。

 触れ合いはほんの数秒の事だった。桂は沖田からそっと離れ、背を向けた。ふたりの間に言葉は無かった。
 桂は壊れた窓枠にひらりと飛び乗り、そしてそのまま振り返る事無く闇の中へ体を踊らせ・・・・消えた。





 沖田は開け放たれた鉄格子の前に立ち尽くしていた。誰かが気付く前に早く此処から去らねばならない。分かってはいたが次に此処に入って 来る事になるのは 奉行達だ。彼らに桂の残した気配や匂い、思い出を汚されたくなかった。

 頭上でかさかさと小さな音が聞こえた。
見上げるといつも昼間にしか姿を見せなかった小鳥が、天窓の縁に止まって茶色い羽を格子に擦りつけている。

「・・・あの人の見送りかい・・・でも残念だったな、もう行っちまったよ・・・」

 小鳥は分かった様な分からぬ様な仕草で可愛らしく首を傾げ、ぱたぱたと羽を動かした。


そう、彼は行ってしまった。すべてをふりだしに戻して夜に消えてしまった。


「・・・・っはっっ・・・」


 思わず苦笑いが零れた。

 いつもいつまでも追い掛けている。走り去る後姿から流れる黒髪、真っ直ぐに輝く視線、強く優しく、残酷な心。
 
 これまでも、この先も、ずっと。


 小鳥が主の居ない房を見下ろし小さく囀りを始める。沖田はひとりでそれを聴いている。


 一筋流れた涙は、さっき触れた唇と同じ温度で頬を撫でる。






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