◆ 32 ◆
ぬくもりが消えた感覚に、高耶は目を覚ました。うっすら目を開くと、部屋はカーテン越しに降りそそぐやわらかな朝の光に包まれていた。
その光を遮るように、大きな背中が高耶の目の前にそそり立っている。 高耶は、だるい足をなんとか持ち上げて傷だらけの背中をけとばした。 「高耶さん、おはようございます」 ベッドサイドに腰掛けていた男は、蹴られたことも意に介せず笑顔で振り返った。髪を乾かさずに寝たせいで、子供のような寝癖がついている。その姿に思わずほころびそうになった口をぎゅっと引き締め、高耶はもう一度けとばす。今度は直江の腹に当たった。 「おまえサイテー」 その声は、ひどくかすれていた。 「体は大丈夫ですか?すみません。無茶をしました」 「サイテーだおまえ。バカ、スケベ、エロオヤジ、ヘンタイ、サド」 悪口雑言垂れ流しの口に、直江はキスをする。睨み上げてくる目の上にも、朱に染まる眦にも、子供のようにふくれた頬にも、詫びるようないたわるような優しいキスを落としてゆく。 「申し訳ありません」 「起こせ。のど渇いた」 直江は高耶の体を貴重品を扱うようにゆっくり起こしてやると、ミネラルウォーターをコップに注いだ。そのまま飲ましてやろうとする直江からコップを奪うと、高耶はぐいっと水をあおる。 「おまえがこんなやつだとは思わなかった」 水を一気に飲み干し、ぷはっと息をつくと、多少マシになった声で高耶がつぶやいた。 「紳士ぶっておいて……とんだ獣じゃねぇかよ」 「……嫌いになった?」 「え?」 意外な言葉を聞いたとでもいうように、高耶は驚いた顔で直江を見上げる。そして、そんな自分に高耶はあきれてしまった。あんなことをされたのに「嫌い」という感情はかけらも生まれていない。そんな選択肢があったことすら気付かなかった。いままで献身的に自分を守ってきた忠実な臣下が、突如豹変して泣き叫ぶ高耶を何度も何度も犯すようにして抱いたというのに…… 「高耶さん」 直江は高耶を胸に抱き寄せた。 それだけで高耶の胸は高鳴る。髪や頬や背を撫でる大きな手や額やこめかみに落とされるキスを、やるせないくらい愛しく感じる。 「直江……」 高耶は顔を上げキスを受け止める。重なった唇の間から、ほっとしたような直江の息がもれた。 「……まだ、怒っているんだからな」 キスの合間にそう釘を刺したが、聞こえているのかどうか。 ふたりは何度も何度も、朝にしてはやや濃厚なキスを交わした。 その甘い空気を断ったのは、ぐぅーという腹の音だった。 「お腹空きましたか」 直江がクスリと笑った。 「誰かのせいで、ほとんど徹夜だったからな」 その時ふと、高耶はあることに気付いた。 (あの記憶を失った朝、裸だったのはこういう訳かよ) 体がやたらだるかったのも、そして空腹だったのも、前晩この男にやられまくったせいだとすると辻褄が合う。 「どうしたんですか?」 ギロリと睨みつけてくる高耶を、直江は怪訝そうに見つめる。 「べつに。ちょっと謎が解けただけだ」 また高耶の胸の中にもやもやとしたものが生まれる。 (景虎とオレが同一人物だってわかってるけどさ……) 自分の知らないことがふたりの間にあるのが悔しいと高耶は思う。直江に対する独占欲が、昨夜を境に何倍にも膨らんだ気がした。 「まだ早いですが食堂に行きましょうか。一応体は拭いておいたのですが、シャワー浴びますか?」 「あ!おまえ腕の怪我大丈夫なのかよ?昨日もシャワーじゃんじゃん浴びてたし。って、血が出てるじゃねえか!!」 直江の右腕の包帯には、わずかに血がにじんでいた。包帯留めもどこかにいってしまい、白い布はゆるく腕に巻きついている状態だった。 「ばかやろう!昨日の晩から暴れすぎなんだよてめぇは!」 細身とはいえ高耶もそれなりに体重はある。その体を持ち上げたりひっくり返したり好き勝手にしていれば、出血もするというもの。 「救急箱か何かあるか?新しい包帯は?」 「ああ、確かクローゼットに」 小さな救急セットを取り出してきた直江を、高耶はベッドに座らせる。 「腕を出せ。とりあえず応急処置だけしとくから、あとで中川に診てもらえよ」 汚れた包帯とガーゼを慎重にはがし、真新しいものに取り替える。 丁寧に巻かれてゆく包帯を、直江はしあわせそうに見つめていた。 「よしできた」 「高耶さん、左手を出してください」 「へ?オレは怪我なんてしてねぇぞ?」 きょとんとする高耶の左手を直江は引き寄せる。 「つめてっ」 ひやっとしたものが手首にはめられた。手首を覆っていた大きな手が離れると、高耶は目を見開いた。 「これ……」 高耶は言葉を失う。 あの銀のブレスレットが輝いていた。 高耶は、直江を見上げる。 「これはあなたを守るものです。私だと思っていつも身につけていてください」 「オレにくれるのか?」 「あなた以外の誰にあげるというのです?」 「……もし、もしもこのまま記憶が戻らなかったら?」 気が付けば、そんな問いが口をついて出ていた。 (4年間の記憶も、景虎の記憶も戻らなかったら、直江は落胆しないだろうか?影でこっそりため息をついたりしないだろうか?4年後のオレと同じだけの質量で今のオレを思ってくれるだろうか?) 不安に駆られる高耶の左手を、直江はそっと握りしめる。 「私が愛しているのはあなたひとりです。記憶がなくても、あなたはあなたです。この先もずっと、私が愛するのはたった一人……あなただけです」 そう言って直江は、高耶の左の手の甲に口づける。 「直江……」 「あなたを愛している」 「うん……」 「オレも」とは、照れくさくて言えなかった。そのかわりに高耶は、真っ直ぐに直江を見つめる。 この赤い瞳が、この炎のように熱い想いを伝えてくれればいいと思う。 ふたりの唇がゆっくりと重なった。 誓いの儀式のような清澄な口づけを、真新しい朝の光がやさしく照らしていた。 |
甘ったるくてクサくてすみません。 さて、もうひと山がんばります。 2006.08.27 up |