日産マイクロバス エコーの系譜2 (日産編_1)

東京オリンピックと大阪万博に挟まれた、いわゆる「高度経済成長期」は、
高速道路の発展もまた著しいものであった。

そのなかでマイクロバスは、道路建設を含めた土木建築業に活躍し、また道路が完成すると団体旅行に用いられた。

1963年、名神高速が尼崎−栗東間で部分開通、2年後には西宮−小牧間で全面開通。
1968年、東名高速が部分開業し、翌年には東京−大阪間が全線高速道路で結ばれた。

そこで長時間の高速連続走行という、日本では過去に例のない自動車の使われ方をしはじめ、
各メーカーの自動車はさまざまな問題に直面することになる。


エコーは1971年にシビリアンに改名されるが、

この裏には「欠陥車問題」という、自動車史に影を落とす悲しい事件があった。

趣味では普通取り上げない重いテーマではあるが、歴史上避けて通れないものであり、ここで扱った。

1966 GC240N
日産エコー
(短尺車・21人乗・ガソリン)

8月、キャブオールのモデルチェンジ
に伴い、ボディスタイルを一新。

高速時代にふさわしい、近代的で
クリーンなデザインとなった。

ライトベゼルはキャブオールと共通。

長尺車はGHC240(25人乗・ガソリン)


リヤタイヤのトレッドの狭さを覚えておいて下さい。

出典:自動車ガイドブックVol.14 1967-68
1967 GHQC240
日産エコー


写真は長尺26人乗、ディーゼル車。

上の写真と見比べると、短尺/長尺の

違いがわかりやすい。


運転席周りの改良により、

シートベルトアンカー装着、

防眩対策など実施。

出典:モーターファン1967-12別冊付録 第14回東京モーターショー
日産車体工機
ニッサン ニューエコー広告
(1967)



「ニューエコー」と呼んでいます。

トミカの「ニュークラウン」的な表記?


資料初出の17人乗りが気になります。


この時期のボディには長尺/短尺の
2種しかないはずなので、シート1列分
を荷物置場としたモデルではないかと
想像します。


社名は62年に新日国工業より改称。
出典:自動車ガイドブックVol.14 1967-68
1968.6.21
日産観光サービス(いわゆる日産レンタカー)所有の車両(GHC240・長尺車)が名神高速道路で横転事故。乗客1名死亡9名負傷。プロペラシャフトが変速機側で焼ききれ、折れたシャフトが地面に刺さったのが原因。

1968.10 
日産エコー、一部変更。
内装のソフトパッド化、テールランプの大型化、可倒式バックミラー採用
1969.3.11 京都市内のレンタカー業者所有の車両(GHC240・長尺車)が名神高速道路で再び横転事故を起こす。23名が重軽傷。原因は昨年6月の事故と同じくプロペラシャフト脱落。

この頃のマイクロバスは普通免許で運転ができ、レンタカー業者が運転手をつけてバスを貸す観光バスまがいの白バス行為が横行していた。
日産車体工機
ニッサン エコー広告


画像は1970年のガイドブック掲載の広告。

キャブオールに合わせダブルタイヤ車登場
(69年4月発売・GHC240W)

リヤフェンダーアーチの耳は
ダブルタイヤへの対応か。

広告には引き続き17人乗の記載あり。


香港向けに、短尺車を更に縮めた
15人乗りミニバスを開発。
年間300台出荷開始

社史に香港向けミニバスは69年
登場とあります。当初は
普通の短尺車だったようです。
出典:自動車ガイドブックVol.17 1970-71
1969.6.6 朝日新聞にて欠陥車報道。「欠陥車」という言葉が世に生まれる。
2件の事故と、68年の事故後に日産レンタカー所有の27台に対するギヤ比変更の
ヤミ改修を報じる。
1969.6.11 欠陥車問題にて、衆議院運輸委員会に豊田栄二トヨタ社長、川又克二日産社長呼び出し。コロナ・ブルーバードのブレーキ破損事故とエコーの横転問題について。
1969.6.16 各メーカーが欠陥を公表。
四輪車で58件、回収対象台数は2,456,544台と当時の保有台数の約10%に及んだ。

エコーは対策部品で二分割プロペラシャフトとなる。
(参考)同時期の各社マイクロバス
  プロペラシャフト一覧表

エコーのみ突出して長く、対策品では
二分割式になっている。

長いほど共振が起こりやすく、縄跳びの縄のように
たわみながら回転することになる。共振は脱落やスプライン
からの折れといった深刻なトラブルの原因となる。



出典:伊藤正孝 『欠陥車と企業犯罪』1993

1969.6 運輸省、法令でのリコール制度創設に先立ち、「自動車の構造装置に起因する事故の防止について」を通達し、リコール届出の受付を開始
1969.9 運輸省、自動車型式指定規則(運輸省令)の一部を改正(昭和44年8月)し、リコール制度が法制化された
1970.8.14 ユーザーユニオン、エコーの事故責任の追及のため日産の川又社長らを「欠陥車と知りながら回収しなっかった未必の故意による殺人」で東京地検に告発。
1970 GHC240W
日産エコー

一部変更

グリルのデザイン修正

輸出対応でダッシュボードを左右対称に

運転席をハイバックシート化
(昭和43年7月保安基準改正による)

デラックスグレード追加
(客席ヘッドレスト、前面熱線吸収ガラス)

出典:自動車ガイドブックVol.17 1970-71
1971 2月、京都府警、日産の設計課長を書類送検。

4月、日産と事故被害者との和解成立。告訴取り下げ。

8月、東京地検、日産エコーとホンダN360の欠陥車問題について、事故と構造の
因果関係は不十分として不起訴と決定。

8月、
道交法改正、定員11名以上のマイクロバスを大型自動車と区分する。

11月 東京地検、恐喝の疑いでユーザーユニオンを家宅捜索。
1971 GHC240
日産シビリアン



拡販・安全対策を目的としたイメージチェンジ。

サイドパネルはそのままで、
前後面だけ変更とした。(9月発売)

コントロールケーブルや燃料パイプの取り回し改善、
シングルタイヤ車の後輪トレッド拡大。

写真は長尺26人乗。

命名には「市民の足となり、市民に愛される
マイクロバスという」思いが込められた。
出典:自動車ガイドブックVol.18 1971-72


1960年代、高速道路の開通とともに日本のモータリゼーションは一段上の段階へ進み、これまで
未舗装路混じりの一般道をノロノロと走っていたクルマたちが急に100km/hで連続走行するようになった。

大手メーカーは当初、ヘッドライトを四灯式に変更した程度で「高速化時代に向けた」と高らかに
謳ったが、連続高速走行に求められる操安性や部品の耐久性は、そんなに甘いものではなかった。

そのツケは、メーカーの屋台骨であるコロナやブルーバード、N360といった主力車種が国内外で欠陥車と指摘
される事態を生んだ。そういう意味では、日産エコーはスケープゴードの標的となった疑いも払拭できない。

ちなみに、谷田部の高速試験場の周回コースの開通は1964年。
名神高速道路の開通より一年遅く、後手に回ったとも言えよう。

【参考資料】
『日産自動車社史1964-1973』
『日産車体工業30年史』
『21世紀への道 日産自動車50年史』
日本自動車工業振興会 『自動車ガイドブック』 各号
朝日新聞社 『世界の自動車』 各号
伊藤正孝 『欠陥車と企業犯罪』
国土交通省Web『第1回リコール検討会配布資料一覧』よりリコール制度の変遷

前ページへ戻る
次ページへ進む
403 forbidden