医務室への道すがら、高耶は表情を強張らせていた。その顔色は青い。
潮は、そんな高耶をちらちらと心配そうに振り返りながらも、かける言葉もなくただ歩き続けることしかできない。
(そりゃ驚くよなぁ・・・)
---この数分前、ひと騒動があった。
高耶が洗面所の鏡を見てしまったのだ。
部屋の前で待っていた潮の耳に、高耶の短い叫び声が聞こえたのはその時だった。
何事かと飛び込んだ潮の目に映ったものは、洗面所の鏡の前で腰を抜かしてしゃがみこんでる高耶の姿だった。
潮の姿を見て、鏡を指差しながら口をパクパクさせて何かを訴えている。どうやら「目が赤い」と訴えているらしい。
つまりそれは、目が赤くなる前の記憶しかないということだ。
(記憶喪失って・・・どれくらいの期間の記憶を失ってるんだ・・・?)
とりあえず中川に早く見せて、治療なり、対策なり考えなければ。
潮は、青ざめたままの高耶を部屋から連れ出し、そして今に至るというわけである。
途中廊下で何人もの隊士らとすれ違う。そのたび皆、高耶や潮に挨拶をしてゆく。
中には高耶の顔色を見て、大丈夫ですか?と声をかけてくる者もいた。
だが、そんな彼らに高耶は警戒心剥き出しの視線で答えることしかできない。
見たことのない顔、見たことの無い廊下、見たこともない風景・・・
何もかも、高耶の知らないものばかりだった。・・・先刻見た自分の顔さえも。
先ほどまで、どこかまだ楽観していた高耶だったが、じわじわと恐怖が襲ってくる。鏡に映った自分の姿がフラッシュバックする。
目が赤いのも不気味だが、それよりも・・・どう見てもあれは・・・
事はもっと深刻なのかもしれないと、高耶は思い始めていた。
ガラッ。
医務室のドアを開ける直前に、それは内側から開いた。
「あれ?どうしたんですか武藤さん」
中川は、ちょうど食堂へ行こうとしていたところらしい。目の下にクマが出来ている。徹夜明けのようだ。
朝一番に医務室を訪れた潮に中川はあくびをしながら、首を寝違えでもしましたか?と笑いながら聞いてくる。
「いや、オレじゃなくて仰木を見てくれ」
潮は、後ろに隠れるように立っていた高耶をぐいっと突き出した。
「痛てーな!何すんだ!」
「仰木さん?どうしましたか?ああ、顔色が悪いですね」
中川は心配そうに、高耶の顔を覗き込む。
「どこか具合が悪いのですか?」
そう聞く中川に、高耶は体を強張らせたまま無言で視線を返すだけだ。替わりに潮が答える。
「あ〜なんていうか・・・仰木が変になっちまって」
「変?」
近寄って触れようとする中川に、高耶は一歩後ずさる。
「仰木さん?どうしたんですか?・・・まさか毒が?」
「毒・・・?」
高耶がギョッとした表情をする。それに潮があわてて言った。
「あ、いや、そうじゃねーんだ!今朝から突然人が変わったっていうか・・・」
「人が変わった?」
「かわいくなってた」
(バキッ)
高耶のストレートパンチに潮が吹っ飛んだ。
潮、吹っ飛ばされるの図 |
「何がかわいいだ!!」
高耶の怒りが爆発する。
「てめーは一体何聞いてたんだよ!オレは昨日の晩からの記憶がねーつってんだろう!!ここどこなんだよ!!」
そう、昨夜は確かに家のせんべい布団で寝たはずだった。なのに・・・・鏡に映っていた自分の姿はとても高校生には見えなかった。
「昨夜」から「今朝」の間には、1週間や1ヶ月単位じゃ済まされない時間が過ぎている可能性に、高耶は先ほどから身が凍る思いだったのだ。
「痛ってーー。冗談だってのに。せっかく人が和ませてやろうかと思って・・・」
「んな場合じゃねーんだよ!!」
「・・・記憶がないんですか?」
中川の顔が険しくなる。
「そ、俺らのことも全部忘れてるらしい」
殴られた頬をさすりながら潮が言う。
観察するように見つめてくる中川を、高耶は睨み返した。中川は安心させるように穏やかに尋ねる。
「記憶はどこからないんですか?」
「・・・昨日学校行って、バイト行って・・・家帰って自分の布団で寝たとこまでは覚えてる」
「学校?!どこの学校ですか?」
「城北高校だけど」
「高校・・・」
中川は目を見開く。潮と一瞬視線を交わせる。潮の表情にも動揺が現れていた。中川は、できるだけ落ち着いた声で聞いた。
「あなたは、今、何歳ですか?」
「・・・16・・・もうすぐ17だ」
高耶はつばを飲み込む。
「それで・・・・・今のオレは何歳なんだ?」
その声は、かすれていた。
---高耶は、ふたりの蒼白な表情に不吉な予感が的中してしまったことを知った。
「とりあえず、そのイスに座ってください。診察しますき」
なんとか気持ちを持ち直した中川は、聴診器を手に優しく丸イスへと高耶を促した。
---あなたは今、20歳です。もうすぐ21になります。
高耶は、空白の4年間という事実に打ちのめされていた。茫然としたまま、されるがままに診察を受ける。
悪い冗談だと思いたい・・・しかし、今日の新聞を渡され、そこにある日付を見れば信じざるを得なかった。
そんな高耶に中川は、「大丈夫です。私がなんとかしますき。任せてください」と懸命に話し掛けながら、半裸になった高耶に聴診器をあてたり、キハチの毒素を測定したりと、こまごまと診察をすすめていった。
「この前の検査と比べて、特にこれといって悪いところはないようです。よかった、蠱毒薬はまだ効いてるようですね。昼になったらこれを飲んでください」
そう言って、高耶の手の平に追加の蠱毒薬を渡す。
「原因はわかりませんが・・・きっと一時的なものですよ。すぐ思い出します。不安なのはわかりますが、私に任せてください」
高耶の強張った肩から、少し力が抜ける。中川の穏やかな表情と優しく力強い言葉が、高耶の不安を少し和らげたようだ。
高耶は、あらためて自分の体を見下ろす。
自分の記憶にあるものより、格段に鍛え上げられた肉体だった。あちこちに傷跡もある。縫ったあとや火傷のあとらしきものもある。そして・・・
「これ、何だ?」
「はい?」
「この赤い斑点は何だ?まさか・・・これがおれの病気なのか?!」
高耶は胸や腹に散らばる赤い内出血の跡を指差して言う。潮が勝手に入れて飲んでいたコーヒーを噴出した。
その赤い跡は、言わずと知れた昨夜の情事の跡である。
(確か昨夜は橘と会ってたよな・・・)
ひょっとして・・・と、冗談まじりに2人の「そんな関係」を考えたことはあった潮だったが・・・
その確たる証拠を堂々と披露され、しかもその理由を尋ねられては、何と言っていいかわからない。何をどう説明しろというのか・・・
「さっき毒がどうとかって・・・」
うろたえる潮の様子も目に入らない高耶は、不安に瞳を揺らしている。そんな彼に中川は、きっぱりと否定した。
「いいえ、ちがいますよ。それは虫に食われただけです」
「虫?」
「ええ」
中川はにっこりと笑う。
「『タチバナムシ』という虫です」
潮がふたたびコーヒーを噴射する。
「最近このあたりで繁殖している虫なんです。普段は橘の木に生息して、その葉を食べて生きているのですが、まれに人間に食いつくこともあるんですよ。ああ、武藤さん、そのへんちゃんと拭いといてくださいね」
中川はにこにこと説明する。
「グルメな虫でしてね。気に入った人間にしか食いつかないのですが・・・仰木さんは気に入られてしもうたらしいですね」
その赤い跡もそのうち消えますし害もないので安心してください、という中川の言葉に、高耶はほっと息をつく。
「あなたの病気は・・・その赤い目だけです。でも私がなんとか治してあげますから、それも心配せんでください。今診察しましたが、他には特に悪いところはないようですき、きっと・・・記憶もそのうち戻るでしょう」
とりあえず、高耶を安心させなければと中川は言葉を重ねた。精神状態の悪さは高耶の体調にダイレクトに現れる。なので、まずは精神面を支えてあげなければならない。不安げな高耶に何度も安心してくださいと声をかけた。
「そうそう。記憶喪失なんて一時的なもんだって。すぐ思い出すさ。そんな心配すんなよ」
潮は、診察を終えてシャツを羽織っている高耶の背中をバシバシと叩く。元記憶喪失患者の潮は、どこかまだお気楽だ。
(そんな楽観できるかよ・・・)
高耶は、ボタンをはめながら小さくため息をついた。
彼らの言うことをどこまで信用できるのか、それすらもわからない状態である。
(でも今はこいつらに頼るしかなさそうだし、まずは今の状況を把握しなければ・・・)
「・・・わかった。とりあえず今の状況を・・・この4年間に起こったことを教えてくれ」
高耶は一番聞きたかった質問をした。が・・・その直後、2人の顔が困惑に曇る。
この4年間に何があったのか・・・それは彼らも詳しくは知らないし、またその内容を説明したとしても、この普通の高校生である今の高耶には理解できないだろう。
(今の彼には上杉景虎の記憶もないようだし・・・)
「なんだ?」
「い、いや、それは後でゆっくり話そうぜ!」
「ええ、朝食もまだですき、その後で・・・」
「・・・何を隠してる?」
軟化しかけていた高耶の警戒心が再び高まる。
(こいつらを信用していいのか?)
「・・・今すぐ知りたい。全部話せ」
「仰木さん、あとでちゃんとお話しますから」
「仰木、落ち着け」
高耶の目に怒りが灯る。
「落ち着けだの朝食だの・・・!こんな状態で飯なんて食えると思ってんのかよ!!」
目覚めてからの不安を一気に爆発させた。一度叫ぶと、決壊した堤防から水が溢れ出るがごとく、抑えていた感情が冷静さを飲み込んでゆく。
「お、仰木・・・」
「何がどうなっちまったんだよ!オレは誰なんだよ!!こんな体知らねーよ!!なんだよこの目は!!」
ほとんどパニック状態だ。
(これは本当に現実なのか?!夢なら覚めてくれ!)
「仰木!ちゃんとあとで話すから落ちつい・・・」
「今言えよ!全部隠さずにな!!」
まるで敵を見るような、怯えと威嚇の混ざった視線を2人に向ける。
「仰木・・・信用してくれよ・・・」
そんな潮の言葉も、疑心暗鬼に陥った高耶の心には届かない。
「仰木さん、大丈夫ですき・・・あせらないでください」
差し伸べられた中川の手も跳ね除ける。
「誰もあなたを騙したりしませんから」
その言葉も拒絶して、高耶は子供のように首を左右に振った。
「信じられねぇ・・・」
今の高耶は、まるで迷子の子供のようだった。必死に母親を・・・信じられる確かなものを探していた。
(誰か・・・何か・・・)
と、その時、医務室のドアがノックも無しに勢いよく開き、黒いミニタリーウェアの男が飛び込んで来た。
その男の姿が高耶の目に映る・・・
「直江!!」
高耶の顔が安堵にほころんだ。
----迷い子が母親を見つけた瞬間だった。