◆ 35 ◆
水の中のような、たゆたう空間を高耶はぼんやりと見つめていた。
誰かの声が聞こえる。 何と言っているのだろう。 高耶はその声に耳をすます。 聞こえてくる穏やかな声は、彼のよく知る声だった。 何かを話しかけられて、高耶はうなずく。 だけどその一瞬あとには、もうその言葉を思い出せない。 言葉は風のように流れゆき、頭の中にとどまってはくれなかった。 やがて、ゆらめく世界は徐々に像を結んでゆく。 水彩絵の具のように淡く混ざり合っていた色が個々に分かれて形になり、それらは端正な男の微笑みを描き出した。 「……はよ」 「おはようございます高耶さん」 直江は高耶の身体を引き寄せシーツごと抱きしめると、今日はじめてのキスをする。 大きな手で額にかかった髪をかき上げられ、高耶は気持ち良さそうに目を細めた。 「もう少し寝ていても大丈夫ですよ」 夜が明けたばかりなのか、うっすらとした淡い光がカーテンを照らしている。 「なあ……オレ、いま、目開けたまま寝てた?」 まだぼんやりとした瞳で高耶が尋ねる。 「ええ。目が覚めたのかと思って声をかけても全く反応が無いので、ひとり反省会をしていました」 「反省会?」 「昨夜も我慢できずに、疲れているあなたを抱いてしまったことを、です」 目覚めれど、指一本動かせないくらい疲れさせてしまったのかと思って、少々反省していたのだと直江は言う。 「少々かよ」 高耶は、頬を撫ぜていた直江の手を口元に引き寄せると、仕置きとばかりにその節ばった指に歯を立てた。指先の甘い痺れに直江は苦笑する。 「その少々も消えてしまいそうですよ」 お返しにと高耶の耳たぶに噛み付き返しながら囁くと、腕の中で高耶は笑いながら身をよじらせた。 「もう明日ですね」 高耶を腕に抱いたまま、突然直江が言った。 「何が?」 「今晩、日付が変わる瞬間を、できればあなたを抱きしめながら迎えたかったのですが残念です」 「はぁ?なんだそれ?……って、今夜もヤる気だったのかてめぇは!!」 今度こそばっちりと目が覚めたのか、真っ赤な顔で拳を固めて戦闘態勢に入った高耶に直江は苦笑して首を振る。 「プレゼントは決まりましたか?」 「この変態エロ親父っ……え?プレゼント?」 高耶はきょとんとした顔をする。 「明日はあなたの誕生日ですよ」 「あ?ああ、そっか……」 あれ以来直江から何も言ってこなかったので、すっかり誕生日を忘れられていると思っていた。ちゃんと覚えていてくれたことが嬉しくて、高耶は一瞬目を喜びに輝かせる。だが、次の瞬間、厚い雲が太陽を覆うように、その瞳は暗く闇に沈んでいた。 「……誕生日を祝う資格なんて、オレらにはないだろう?」 その表情は、何も知らなかった高校生の彼のものでは、もうなかった。 「オレは、換生者だ」 絞り出すように高耶は言った。 「……ええ、そうです」 「知ってるなら冗談でも誕生日とか言うんじゃねぇ」 「この日は私が救われた日なんです」 高耶は目を見開く。 「仰木高耶としてあなたが生まれてくるまでの間、私がどんな恐怖の中で生きてきたかわかりますか?もう二度とあなたに会えないかもしれないと……もうあなたはこの世から消えてしまったのではないかと私は……っ」 直江は高耶の体を痛いほどに強く抱きしめる。 「直江……」 直江の指が肌に食い込む。触れ合う体は、かすかに震えていた。 「そんな狂気と絶望の世界に希望が生まれた日なんです。その時はまだ私は知らなかった。でも、確かにその日、私は救われていたんです」 「直江……」 「私にとって何よりも大切な日なんです。だから、その日をどうか祝わせてください。私のために……生まれてきてありがとうと、そう言わせてください」 「わかった。わかった直江」 いつも自分を守ってくれるこの男が、泣き出す前の子供のように見えて、思わず高耶は広い背に腕を伸ばして抱き返す。 「その……よくわかんねぇけど、恐い思いさせてごめんな直江」 はじめて見る直江の様子にうろたえながら、高耶は必死に言葉を紡ぐ。 「記憶はなくなったけど、でももうどこにもいかねぇから……不安にさせねぇから……」 ピピピピと、無粋な電子音が部屋に鳴り響く。 「……もう、起きなければ」 「うん」 高耶は手を伸ばしてアラームを止めた。 ふたりは絡まりあった腕を名残惜しげにほどき、服を身につける。 身支度をしながら、高耶は傍らの直江をそっと盗み見た。先ほどの悲壮感は、もう欠片も見つからない。 「どうかしましたか?」 「別に……」 何事もなかったかのように穏やかな笑みを返してくる直江の姿に、高耶は急に不安になる。 自分の知らない直江の苦しみや悲しみが、この笑顔の裏にたくさん隠れているような気がした。 「では、宿毛に行ってきます」 靴紐を結び終えた直江は、後ろ髪を引かれるように高耶に向き直る。 「これ以上、傷を増やすなよ」 そんなぶっきらぼうな口調とは裏腹に、高耶の顔には心配と不安が浮かんでいた。 包帯の巻かれているあたりにそっと手を添えて、高耶は祈るように目を伏せる。 「オレのせいでお前が怪我すんのは嫌だけど……オレ以外のヤツのせいで怪我すんのはもっと嫌だからな」 「ええ……必ず無事に帰ってきます」 伏せられた顔に手を添え、直江は誓うように口づけた。 「高耶さん」 「ん?」 「明日の朝5時に、西の裏口から道路の方へ登ってきてくれませんか?」 唐突に直江が言った。 「はぁ?5時だぁ?」 何を言い出すのかと、高耶は眉をひそめる。 「実は、プレゼントをひとつ用意してあるんです。明日そこでお渡しいたいんです」 「なんだおまえ、ちゃんと用意してるくせにオレに『欲しいものないか』なんて聞いてたのかよ。っていうか、お前の大事な記念日を祝う日なら、オレからお前に何か贈るのが筋なんじゃねぇのか?」 首をひねって真剣に悩み出した高耶に、「あなたにプレゼントを贈るのが私の幸せなのでそれでいいんです」と直江は笑って返した。 「でもなんでそんな時間なんだよ?昼にしろ昼に」 大迷惑と大書したような顔で文句を言う高耶に、直江はただ笑みを浮かべるだけで何も答えてはくれない。譲歩する気のない直江の様子に、高耶はあきらめのため息をついた。 「……起きれたらな」 「ありがとうございます。必ずひとりで来てくださいね」 せっかく明日はゆっくり眠れる思ったのにと、まだブツブツと文句を言う高耶を直江はもう一度抱きしめ、「待ってますから」と念を押して部屋を出て行った。 |
気が付けば、3ヶ月ぶりくらいの更新です。(汗) 35話はだいぶ前に一応書けてはいたんですが(36話の内容によってまた修正するかもしれない部分があったので保留してました)、個人的な心境の変化により、大幅に書き直して当初のものから甘さ20%カットな内容になってしまいました。あと、高耶さんの残酷度もたっぷり増量してます。 えーと、つまり、4月27日を迎えると、いろんな感情が湧き上がってきてしまいます……という話です。 あとどうでもいいようなことですが、シャワーは寝つく前に浴びたことにしといてください。シャワーを浴びて……と説明を入れるとなんだか書きにくかったので、起きてそのまま服着せてしてしまいました。(^^;) 2007.05.05 up |