◆ 36 ◆
その日、高耶はこれといって何もない平穏な時間を過ごしていた。
兵頭ら重要ポストの人間も宿毛へ駆り出されているため、軍議もなく、高耶は潮と室内での能力開発トレーニングなどをして過ごした。 夕食のあと、高耶はいつもより早く部屋に戻っていた。ベッドに転がり、手の中にある携帯の暗い画面をじっと見つめる。 今日一日、直江からの連絡は一度も無かった。 (今頃なにやってんだろ) キーの上に何度も親指を彷徨わせた高耶は、ふうっという息と共にパチンと携帯を閉じると、ベッドの上に腕と一緒に放り投げる。 胸がざわついて落ち着かない。この気持ちはなんなんだろう。 高耶は何度も寝返りをうち、振り切るように目を閉じると、その不安は更に大きな闇となって高耶の心を侵食してゆく。 正体のわからない不安は、まさに闇そのものだった。それはどんどん膨らんでゆき、それはやがて高耶を襲った。 「っ!!」 ベッドから飛び起きると、高耶は震える手で枕元のスタンドを付けた。いつの間にか眠っていたらしい。何か怖い夢を見ていたように思うが、何も思い出せなかった。 汗ばんだ体にエアコンの冷気が当たって身震いする。 (なんなんだこれは) 心臓の音が耳に聞こえそうなくらい、どくどくと大きく鳴っている。手が振るえ、視線が一箇所に定まらない。この感情には覚えがある。 (……焦り?) 早く何かをしなければ取り返しのつかないことになる。そういう時の焦りに似ている。 高耶は時計を見た。 「2時半?!」 こんな時に何をのんきに寝こけているんだ!と自分に舌打ちをする。作戦開始時刻から30分が経過していた。いまごろ直江は伊達と交戦の真っ只中なのかもしれない。 血を流して倒れた彼の姿が頭の中に蘇り、高耶は居ても立ってもいられずベッドから飛び降りた。 どくどくと胸の動悸が治まらない。嫌な予感がする。 震える指でシャツのボタンをはずすのももどかしく、引きちぎってそれを床に脱ぎ捨てると、Tシャツを頭からかぶってジーンズを引き上げる。靴をつま先に引っ掛け、引き出しから取り出したバイクのキーを手に部屋を飛び出そうとしたその時、高耶は感電したようにぴたりと動きを止めた。 (いや……ちがう) 何か激しい違和感を感じた。そうじゃないと、心の奥から警告する声が聞こえる。 高耶はまた時計を見る。カチカチという時計の音が、更に高耶を追い立てる。 「何なんだよっ」 何度も足を踏み出しては引き戻り、目は時計に注がれる。何かをしなければ思うのに、何をすればいいのかわからない。いますぐ走り出さなければならないと思うのに、どこに行けばいいのかわからない。高耶は一歩も動くことができずに、部屋の真ん中で凍りついたように立ちすくむ。そうしている間にも警鐘はどんどん大きくなってゆく。高耶はまた時計を見た。 5分……10分……15分…… 時が過ぎてゆくのを、血走った目でただ見つめることしかできない。 20分……25分……30分…… 頭の中を悪い血がグルグルと渦を巻いているようだった。息が上がる。血が沸騰しそうだ。頭が真っ白になる。なぜこんなに自分は時計を見つめているのだろう?何を焦っているのかも、タイムリミットすらわからないというのに、一分一秒に殺されるようだった。 その時、そーっと音も無くドアが開いた。 「寝てるか?」 「武藤……!」 怖い夢から目覚めた子供のような顔で高耶は潮を出迎えた。 「あー、起きてたか。中川に処方してもらったやつだったんだけどなぁ……」 「……処方?」 「いや、なんでもない」 こっそりコーヒーに睡眠薬を混ぜて高耶に飲ませておいたのだが、結局無駄だったかと、潮はぽりぽりと頭をかいた。 「まあいいや。安心しろ。作戦は中止になったぞ」 「中止?」 「こっちの動きが、向こうにバレてたらしい」 伊達に悟られないようにと、宿毛のメンバーには普段どおりの生活をしてもらい、スパイ疑惑のかかった唐草にも監視をつけて密かに厳戒態勢をとっていたのだが、どこからか情報がもれたらしい。予定時刻から一時間が経っても敵は動くどころか気配すら見せず、先ほど作戦中止の連絡が入ったのだと潮は言う。 「そういうわけで橘は無事だから安心しろよ。あーまったく天下無敵の仰木隊長がそんな死にそうな顔してまぁ……おまえを殺せる人間がいるとすれば、それは橘なのかもな」 洗面所からタオルをひっ掴んできた潮は、高耶の顔の汗をゴシゴシとぬぐってやる。 「橘の面子は丸つぶれだが、情報なんてどっからもれるかわかんねぇからな」 今頃、直江は兵頭にネチネチといじめられてることだろう。身動きひとつしない高耶の汗を拭いてやりながら、潮は暗い窓の外へと同情の眼差しを向ける。 「ただ、他にスパイがいる可能性も高くなったわけだから、おまえも気をつけろよ。……仰木?聞いてるか?」 高耶は瞬きもせず、じっと無機質なドアを見つめたままだった。 その様子を不審に思った潮が、どうしたのかと口を開きかけた時、某スパイ映画のテーマソングが深夜には相応しくない音量で流れ出した。 「おっと」 携帯画面に一瞬目をやった潮は、「じゃあな」とそそくさと部屋を出る。電話の相手は、何かあったときの連絡係を頼んでおいた潮と顔見知りの宿毛の隊士だった。 高耶の部屋の前から数歩離れてから受信ボタンを押すと、不吉な予感に正解のベルが鳴らされたかのように、耳元で爆音が轟いた。 「どうした?!」 『き、奇襲じゃあ!撤収しようとわしらが配備を解いた隙を狙うて伊達の奴らが攻めてきよった!』 潮は目をむく。 『数は……30、40、いや50、わからん!わからん!あちこちから沸いて出ちょる!倉庫を手当たりしだい燃やそうとしちょる!あやつらはアジトごと爆破する気じゃあ!』 背後に飛び交う爆破音と念ライフルの連打の音が戦闘の激しさを伝えている。 「落ち着け!戦況はどうなってる?」 『わからん!敵も味方もめちゃくちゃじゃあ!』 恐怖を吐き出すようにわめく相手は、完全にパニックに陥っていて冷静な状況判断ができない様子だった。人選ミスだったかと潮は渋い顔をする。 どう考えても数でも地の利でも、こちらが断然有利のはずだ。今は向こうの奇襲に一時混乱してるだけだろう。 (オレが助けに行く必要はないかな) 水を操る潮なら今からでも宿毛に飛んでいけば、役に立てることは間違いないだろうが、いまの彼には高耶の護衛という重役があった。それを放って行くことはできないよなと、潮はそう結論づけ、電話を切ろうとしたその時だった。 「……仰木!」 高耶は潮の手から携帯を奪い取るとそれを耳に押し当てた。その表情には、広場で見せた狂気の片鱗が浮かんでいる。 潮はとっさに高耶の左腕に目を走らせ、銀のブレスレットがあることを確認して息をついた。しかし油断はできない。直江のことになると、この目の前の男は常識の範疇など軽々と超えてしまうからだ。 「何があった?」 ひとことも聞きもらさないようにと、高耶は耳に携帯を強く押し当てて言った。 その問いは潮にも向けられている。射抜くような目で問う高耶に、潮は「奇襲にあったらしい」とだけ伝えて、それ以上はさっぱりだと困ったように首をすくめた。 電話の向こうからは要領を得ない叫び声が聞こえている。その背後から聞こえる只ならぬ騒音に高耶の顔は見る間に色を無くしていった。 「何があった?!」 潮から視線をはずすと、高耶は窓の外をにらみ付けながらもう一度問いかける。しかしその問いにも、混乱状態の奇声のようなものしか返ってこない。こめかみに青筋を立てた高耶は、助けてくれと泣き叫ぶ相手に地獄の底から湧き出るような声で言った。 「黙れ。ぶっ殺すぞ」 電話口の相手はピタリと口を閉じる。目の前の危機よりも、この電話相手の方が恐ろしいことを本能的に感じ取ったのかもしれない。隣では潮も一緒に青ざめている。 「橘はいるか?」 『はっ……いえ、た、橘は行方不明です。倉庫の爆破に巻き込まれたんじゃないかっちゅうて、さっき仲間が倉庫に転がってた橘の靴を……』 携帯に耳を寄せて一緒に会話を聞いていた潮は、最も恐れていた事態が起こったことを知る。 「待て仰木!」 案の定、高耶は携帯を放り出すと全力で駆け出していた。引きとめようとした潮の手がむなしく空を掻く。 「まったく、この似たもの同士がっ」 高耶の背中にもうひとりの男の後ろ姿を重ね合わせながら、潮はため息混じりに後を追う。ポケットの中の鍵が、チャリンと出番を告げるように軽やかに鳴った。 「仰木!1階の資料室の窓から出ろ!出入り口は警備の奴らがはっている!」 高耶が振り返った。 「おまえが抜け出して橘んとこに行かないように、罠はってんだよ」 高耶がアジトから飛び出そうものなら、腕の魂枷と同じ効力を持つ網や麻酔銃が打ち込まれる手はずになっていた。まるで猛獣扱いだ。これらは直江の危機に高耶が宿毛に行けば、また広場のような惨劇が起きるだろうと、それを危惧した嶺次郎が密かに準備させたものだった。そしてそれは同時に、直江の裏切りを防ぐ策でもあった。直江が赤鯨衆を裏切り、記憶の無い高耶を上手く言いくるめて連れ去るという可能性もあるからだ。 嶺次郎は、直江の情報を決して鵜呑みにはしていなかった。 「仰木、こっちだ」 足音を潜めて、ふたりは資料室へと足早に向かった。 1階に降りたふたりは、廊下の窓の下を這いながらそろそろと進む。窓の外には警備の者たちが重装備で巡回していた。それを目撃した高耶はそこまでするかと目を丸くする。 「おまえが暴走しないように、みんな必死んなってんだよ。宿毛アジトが国崩しごと爆破されちゃたまんねぇからな」 そう言いながら潮は、小さな鍵をポケットから取り出すと、資料室の錠をあっさりとはずした。言ってることとやってることが正反対だ。 「裏の道路に車を止めてある。そこまで走るぞ」 「……オレを止めないのか?」 訝しげな顔で高耶が言った。 「止められないからな」 潮は苦笑する。 「本気になったおまえらは、誰も止められないからな。止めて怪我するより一緒に走る方がいい。という訳で協力してやるから、ひとりで突っ走るんじゃねぇぞ。オレはいつでも、おまえの味方だ」 そう言って潮は、にかっと笑うと窓の外へと飛び出した。 「仰木?早く来いよ」 窓の外から呼ばれて、高耶は、はっと我に返る。 「今行くっ」 もうひとり大切なダチができたと言ったら、譲は何て答えるだろう? 親友のやわらかな笑顔を思い描きながら、高耶は力強く窓枠を飛び越える。不安と恐怖でいっぱいだった心に、小さな灯りが宿った気がした。 裏手の階段をふたりは一気に駆け上がると、登りついた道路を海岸沿いにいくらか走ってアジトから離れた。その背後に追う者はいない。うまく抜け出せたようだった。 「すぐそこに車置いてあるんだ」 そう言って、どこに持っていたのか懐中電灯まで取り出した潮に、高耶は少し呆れてしまう。 「車持ってくるから、おまえはそこで待ってろよ」 「わかった」 高耶はガードレールにもたれて息を整える。呼吸が乱れるのは、走ったせいだけではなかった。 (直江は大丈夫だ。こんなことでくたばったりしない) 左腕のブレスレットを胸に抱きしめながら、大丈夫だと高耶は何度も自分に言い聞かせる。 高耶は海風を大きく吸い込み深呼吸する。しかし落ち着く呼吸と反比例するように、部屋で高耶を襲った得体の知れない不安が、再び彼を襲い始める。 胸が早鐘を打ち、整ったばかりの息が激しく乱れる。 (またかよっ) 高耶は震える指で胸を掻き毟った。 部屋の時よりも大きく激しく、その何かは高耶に危機を知らせている。早く!早く!早く!と、見えない理由が高耶を急き立てる。 「何なんだよっ!」 クシャクシャと頭をかきむしると、高耶はガードレールに拳をぶつけ、荒い息を吐く。正体のわからない不安に押しつぶされそうだった。 「直江っ……」 直江よりも大事なものなど自分にはない。直江を失うこと以上に怖いことなど何もない。今は直江の無事だけを祈っていたい。直江の安否以外のことなど考えられない。 (そのはずなのにっ) その想いを塗りつぶしてゆこうとするこの不安と焦りは、一体何だというのだろう。直江が危険にさらされてるかもしれないこの時に、なぜ自分はこんな意味のわからないものに囚われなきゃならないのだろう。 (おまえ以上のものなんて何もないのにっ!) 高耶は、すがるようにブレスレットを握り締め、男の名を呼ぶ。 「直江ぇっ」 応えるように、ドオンという大きな波音があたりに響いた。高耶は苦痛に歪んだ顔をゆっくりと上げる。 視線の先には、丸く満ちた月が青白く輝いていた。そしてそれを背にした白い灯台。 断崖に打ち付けられる波の音が、やけに大きく高耶の鼓膜を振るわせていた。 |
ようやく連載再開です。 相変わらず、潮愛がだだもれです。 2007.07.14 up |