◆ 37 ◆
ゴツゴツとした岩の上に、ひとつの影が潜んでいた。
岩のかけらが落下するように、それは突如垂直に滑り落ちる。地面に叩きつけられる音の代わりに、ぐぇっという潰れたうめき声と、重いものがどさりと落とされるような音が響いた。 闇の中から、音も無く影が滑り出す。月明かりが、ひとりの男の姿を曝した。 その男はまわりの気配を探ったあと、目の前にそびえるものを見上げる。 敵の侵入に誰も気づいてはいないようだった。今ここに目を向けている者などいないのだろう。あちらの囮は上手くいったようだと男は確信する。 残る見張りは2人。警備の巡回ルートも、無線連絡の時間も、トラップの場所もすべて頭に叩き込んである。 男は潮の香りを深く吸い込み、念を押すように息を整える。 計画はすべて順調だった。手のひらの上で転がすように、何もかもが思惑通りに踊ってくれた。 もう一度ゆっくりと息を吸い込む。 失敗は許されない。 もうこれ以上のチャンスなど、天は与えてはくれないだろう。 男は、全身の神経を張り詰めながら劣悪な足場を登りはじめる。爪の先まで神経を尖らせ、小石ひとつ転がすことすら許さず、はやる心を何度も惨殺しながら上を目指す。 岩壁を掴む手が汗ばむころ、見張りの姿が現れた。 「!!」 突然現れた侵入者に、見張りの男は目を剥いた。何が起こったのか頭が理解するよりも早く、腹に重い衝撃を受ける。声を発そうと開いた口からは、血のまじった唾液が流れ、遠のく意識とともにあっけなく地面に崩れた。 「どうした!」とすぐ近くで声が上がった。男は逃げることなく、静かに最後のひとりを待ち受ける。 駆けつけてきた見張りは、男の姿に目を見開いて立ちすくんだ。そしてその足元に倒れた仲間の姿に驚愕する。 「なっ……なんで……」 その様子を、男は無言のまま凍れるような目で見つめる。 「あ……あ……」 見張りの男は後ずさる。青白い炎のような静かな殺意を孕んだ目が、照準を合わせるようにひたりと自分を見据えている。その冷徹な視線上に手がかざされる。かざされた手の中には灼熱のような白い念が渦巻いていた。 「――っ!!」 胸に一撃をくらい、声にならない掠れた音を漏らしながら体を宙に舞わせる。岩肌に強く叩きつけられた体は、地面で一度跳ねてから人形のように力なく崩れ落ちた。 男は、倒れた2人の首筋に手を当て生死を確認すると、最後の砦へと向かう。 自然と足が早まった。もう目の前にそれはある。 最後のトラップを取り除いた男は、揺るぎない意思を込めて手を伸ばした。 「そのプレゼントは受け取れない」 背後で静かな声がした。 男は息を止めた。 「受け取れない……直江」 その男――直江は振り返る。 「高耶さん……」 絶望をこめてその名を呼んだ。 なぜ……と直江の唇は、声も無くわななく。見上げた岩の上に、ここにいるはずのない彼の姿があった。 なぜ、ここに彼がいるのか。 記憶を失ったはずの彼が、なぜ、すべてを見透かすような瞳で自分を見ているのか。 答えの出ている問いが心の中に反響する。 直江は崩れ落ちそうになる心を奮い立たせ、真っ直ぐに高耶を見上げた。 「それは、困りましたね。他には何もプレゼントを用意していないんですよ」 挑むように見返してくる男を、高耶は裁きと憐れみの混じった瞳で見つめ返す。 譲れないものを胸に抱きながら、ふたりは向かい合う。 直江の背で、烈命の星が瞬くように赤く輝いていた。 |
短いですが、ひとまずここまで。 残り2話です。 2007.07.14 up |