◆ 38 ◆
「記憶が戻ったのですね」
直江は烈命星を背にしたまま、静かに言った。 威圧する瞳、まとう気迫、寸分の隙もない身のこなし…… 目の前の高耶は、もう4年前の彼でないことは明らかだった。 「宿毛が奇襲にあったと聞いて武藤とアジトを飛び出したんだ。そうしたら、白い灯台に月がかかっているのが見えた」 その光景を見た瞬間、すべてを思い出したのだと高耶は語った。 「そして、おまえが何をしようとしているのかも、わかったんだ」 高耶は岩の上から降りると、直江と正面から向き合った。 「オレの記憶を消したのは、おまえだったんだな」 攻めるでもなく、罪状を述べる裁判官のように高耶は淡々と伝える。直江は自嘲するように口元をゆがめた。 「昨日の朝も、せめて今日までは思い出さないようにと、念を入れて記憶を封印しておいたのですがね」 「本当に油断のならない人だ」と言って、直江は真っ直ぐに注がれる視線を避けるように、そっと目を伏せた。 あの晩――直江がそれを実行した夜、高耶は珍しく弱さを露にしていた。 ――思い出したいんだ…… 成田譲の記憶を思い出せないことに、高耶はひどく落ち込み、そして不安に怯えていた。 この時、心を弱らせた高耶をやさしく慰めながら、これはチャンスかもしれないと、直江は密かに心を躍らせていた。 寝る間も無いほどに、連日数々の業務を精力的にこなし限界に達しているだろう肉体と、不安に苛まれて弱った心。そして親友の記憶を取り戻したいという切なる願い。密かに描いていた計画を、今なら実行できるかもしれないと…… その夜、疲労を抱えた高耶の体を、直江は何度も何度も高めさせた。彼の体をゆさぶりながら、力という力を奪い取り、細い悲鳴を上げてベッドに沈没した彼に暗示をかけた。 上杉景虎の記憶をすべて封じるようにと。 そして、成田譲と笑いあっていた、あの高校時代に戻りなさいと。 翌朝、不可能だと思えた彼への暗示は、嘘のようにあっさりと実現していた。その時の気持ちをどう表現すればいいのかわからない。かけがえのないチャンスが生まれた歓喜の瞬間だった。 それからは目まぐるしい毎日だった。 烈命星のある唐人駄場は、指折りの先鋭がそろう足摺アジトから近い。まともに攻めては一蔵しか味方のいない直江には不利な状況だった。そのため、足摺から戦力を剥ぎ取ることからしなければならなかった。 伊達に国崩しの情報を流し、彼らと内通するスパイを作り、時には霊派同調で自ら伊達に潜入して国崩し破壊計画を立てさせた。そして、この国崩し破壊計画を今度は嶺次郎らに流し、みなの注意がそちらへ向いた隙に烈命星を奪おうと、そういう計画を組み立てた。 深夜人知れず裏工作に走り、一蔵をこき使って舞台を整えていった。 誤算だったのは、国崩しを保管していた足摺の第4倉庫に、伊達の侵入の痕跡を付けようと直江自ら忍び込んだ姿を、警備の者に目撃されたことだった。 幸いなことに、高耶があいまいにしか時間を覚えてなく、侵入者が目撃された時間は直江と会っていた時間だと勘違いをしてくれたおかげで疑いを晴らすことができた。そして思惑通り国崩しを宿毛へと移動させられたのだが、それ以降、兵頭の疑いの目が鬱陶しいくらいにまとわり付くようになってしまった。 この状態で直江が、伊達から国崩し破壊計画を『偶然入手』するのはあまりに危険だった。たとえ嶺次郎を説得できたとしても、あの男だけは決して信じないだろう。他の者の口を使って情報を流させることも考えたが、疑り深い嶺次郎の追求をかわせるかどうか不安がある。もし無事に信用を得られたとしても、国崩しを安全な場所に閉じ込めて防御させるだけでは意味がなく、敵を待ち受けて一網打尽にするというところまで話を持っていかなければならない。そうでなければ、足摺の戦力を宿毛へ移すことなどできないからだ。 国崩し破壊計画は、偶然にも高耶の誕生日に決まった。それまでに――説得する時間を考えれば、せめて2日前までには情報を嶺次郎に流さなければならない。誰もが納得できる情報を。 日に日に焦りは強くなる。 万策尽き、あとはこの自分の話術のみで嶺次郎らの信用を勝ち取り、罠に引きずり込んでやろうと決意したあの日、その幸運は突如目の前に舞い降りてきた。 焼け焦げた広場で、たったひとり生き残った伊達の男。 武藤が見守る中、直江は自白を促すためだと偽って堂々と暗示をかけた。意識を朦朧とさせていたのも功を奏し、それは見事な操り人形が出来上がった。あとは、武藤に聞こえるように男に直江の作った台本を読ませ、その男を伊達のもとへ返してやれば完璧だった。 翌日の会議で、舞台はすべて整った。兵頭の進言のせいで宿毛へ行くことになったが、それも想定内のこと。すぐさま伊達に都合のよい情報を流して奇襲をかけさせ、その混乱に乗じて持ち場を抜け出すと、唐人駄場へと車をとばした。 あとは烈命星を奪い、足摺アジトの裏の道路で待っているはずの高耶を拾って逃亡すればよかった。そのまま逃げ切ることができなくても、烈命星で彼の魂核を治療できる時間さえ稼げればそれでよかった。 それだけで、彼のいる未来を手に入れられるはずだった。 「まさか、月まで敵だったとは知りませんでしたよ」 頭上に輝く丸い銀盤を見上げ、直江は皮肉に笑う。 すべてはうまくいっていた。これはもう、そうなるべく天が決めたのだとそう思った。 現に、あとはほんの少し手を伸ばすだけで、確かな未来を手に入れることができる。 (あとほんのわずか手を伸ばすだけで……!) 直江は、両足をじりっと広げる。高耶は目を見開いた。 「やめろ直江」 諭すような声で高耶は言った。 「やめろ直江……オレは、おまえに勝ってしまう!」 自分の強さを嘆くかのような苦しげな声だった。 「ゲームオーバーだ、直江」 「まだ終わっていない!!」 直江の体から、陽炎のような念が揺らぎ出す。それを映した高耶の瞳がうねり、紅蓮の炎が直江を囲みこんだ。緊迫した空気があたりに漂う。 「あきらめるんだ直江」 炎に巻かれながらも直江は引き下がろうとはしなかった。 相手は400年間一度も勝てなかった絶対の勝者。戦う前に勝敗は決まっていた。それでも真っ向から高耶に立ち向かい、念を立ち上がらせてゆく。 「直江……」 今、直江の目に高耶の姿は、最愛の人ではなく、最大の敵と映っているのだろう。 高耶は唇をかみ締め、左手首を強く握り、 「おまえがくれた魂枷をオレにはずさせる気か!!」 空気を震わすように叫んだ。 直江の闘気が一瞬ゆらぐ。 「オレにおまえと闘えというのか?おまえの血でこの手を濡らせというのか?……この日に!」 高耶は左手を胸に抱きしめる。 「オレが――仰木高耶が生まれたこの日を、おまえは祝福させてくれとそう言ったじゃないか!その言葉にオレがどれだけ救われたか……おまえがそう言ってくれたから、オレは厚い面の皮を堂々とさらして仰木高耶を名乗って生きることができるんだ。そう言ってくれたから、この日をひとりの男を救えた喜びで……おまえと再び出会えた喜びで迎えることができるんだ!それを苦しみの日に変えたりしないでくれ直江!おまえと刃を交わした悲しい日に塗り替えないでくれ!」 声が嗄れるまで高耶は叫んだ。 「おまえと戦わせないでくれ……!」 闘気をたぎらせていた直江の目が徐々にゆらいでゆく。 それが諦めの色に覆われるころ、直江は力なく頭をうなだれさせた。 「なんて残酷な人だ……」 血を吐くように呻いた。 「なんて……残酷な結末だ……」 「直江やめろ!」 直江は拳を振り上げ岩を殴りつける。行き場の無い怒りと悲しみを、何度も何度も血が吹き出るまで叩きつける。 「直江っ……」 振り上げられた血まみれの手を、高耶は力いっぱい胸に抱きしめた。 (直江……) 悪かったと、詫びることなど高耶にはできない。どんなに直江が苦しんでいても、泣き叫んでいても、彼を傷つけるこの身に、こうして抱きしめることしかできない。 ――おまえ以上のものなど何もないのに! 『4年前』の叫びが残響のように頭に木霊する。 あの想いに今も嘘はない。 だけど、今の自分はもうそれだけではなくなってしまった。 「この日は、私を絶望から救ってくれた日でした」 涙に濡れた声で直江は言う。 「この日に、もう一度希望を生まれさせたかった……自分のこの手で!」 だけど、奇跡は2度は起きなかった。 「なぜ、あなたがここにいるんですか」 直江の目から涙が流れ落ちる。 「なぜっ……」 慟哭の悲しみを、高耶は胸に抱き止める。 胸に熱い雨が降り注ぐ。 この痛みに泣く資格など高耶にはない。それでもあふれ出る涙を止めようと仰いだ空には、もう月の姿はなく、いつのまにか空が白じんできていた。 また、新たな一日がはじまろうとしていた。 夜明けの気配を感じたのか、しばらくして直江は、高耶の胸に埋めていた顔をゆっくりと上げる。 まだ薄闇の淡い色調の中、晴れ渡った空と白く波を刻む海が見渡せた。 やがて空と海の境界線が輝き出し、光の玉が産まれ出る。 「誕生日、おめでとうございます高耶さん」 もろく崩れそうな笑みを浮かべて直江は言った。 「……ありがとう、直江」 海から吹き上げる風が、ふたりの濡れた頬を撫ぜてゆく。 「ありがとう」 直江への想いのすべてをこめて高耶はその言葉を口にする。 ふたりは黙ったまま見つめ合う。それ以上、言葉を紡ぐことはできなかった。その言い訳を作るように、ふたつの唇は重ねられる。 せつなさを共有するように、何度も重ね合った。 「結局、何もあなたにあげられませんでしたね」 唇を離し、いくつめかの風を流したあと、ひとりごとのように直江がつぶやいた。 それに高耶は首を振る。 「記憶の無かったこの10日足らずの間、とても楽しかった……みんなにいっぱい甘やかしてもらって、いっぱい我侭を聞いてもらった。酒もタバコも堂々と吸えた。おまえが怒るのも楽しかった」 仲間と夜通し酒盛りをしたり、猫っかわいがりされて髪をぐちゃぐちゃにかき回されたり、馬鹿な話で盛り上がるのも悪くなかった。 蠱毒薬の苦さを何とかできないのかと文句を言ったら、その3日後、目の下に濃いクマを作った中川から、微妙なイチゴ味風味のものを笑顔で渡された。我侭言って悪かったなと思いながらもそのやさしさに胸があたたかくなった。 馬刺しが食べたくなったと言って直江に松本から取り寄せさせたり、兵頭に新鮮な魚を何匹も貢がせたり、楢崎をパシらせて吉牛やハンバーガーを食べたり、言いたい放題食べたい放題だった。 潮のカメラを借りて写真を撮ったのも楽しかった。写し撮った風景が、現像液の中で浮かび上がってきた時の感動は忘れられない。 そして何より……何の苦痛もなく、ただ「好きだ」という気持ちだけで直江と過ごした時間は、夢のように幸せなひと時だった。 現代人『仰木高耶』として過ごした思い出が次々と色鮮やかに蘇り、高耶はやわらかな笑みを浮かべる。 「記憶を失っている時、オレはあいつのことを思い出すこともできた」 取り戻した記憶のかわりに、また消えてしまった親友の記憶。 「そいつはきっと、今頃オレのことを心配してるだろうなと思って悲しくなったり、こんなことをしたら、あいつは怒るだろうなって苦い気持ちになったり、そいつと武藤をいつか会わせてやりたいと思って、きっとふたりは気が合うだろうなって、そんなことを考えて嬉しい気持ちになったりしてた」 高耶は直江の頬に手を添え、真っ直ぐな瞳で見つめた。 「今のオレには、決して手に入れられない時間をおまえはくれたんだ」 目的は他のことであったとしても、与えられたものはかけがえの無い大切なものばかりだった。 ありがとう、と、高耶は囁く。 「ありがとう、直江」 高耶の笑顔を、昇ったばかりの太陽が輝かせた。直江の目から再び涙が零れ落ちる。 それぞれの痛みを抱きながら、ふたりは仰木高耶の21回目の誕生の朝を迎えた。 |
この話を書くのはすごく辛いものがありました……原作の唐人駄場のシーンを思い出して悲しくなりました。あの名シーンのある唐人駄場で直高対決の話なんて恐れ多いと思いつつ、高耶さん記憶喪失の理由がこれしか思いつかなかったので書いてしまいました。(さすがにバトルシーンは書けません) これを書くために、これまで伏線をいろいろ張ってたのですが、これらのヒントに気づいた人がどれだけいたのでしょうか。という以前に、そんな伏線があったことを覚えている人が果たしているのかどうか疑問です。3年がかりの超鈍行連載ですからね……(苦笑)そんなわけで今回は、サスペンス劇場のラスト10分のような親切仕様にしておきました。 次でラストです。 2007.07.17 up |