(プロローグ)鳥のさえずりが春のやわらかな日差しととともふりそそいでいた。ときおり巻き上がる春の嵐に、桜の花びらが舞い踊っている。その花びらの1枚が、優しい手に捕らえられる。その手の持ち主---こんな場所には不似合いな黒いスーツ姿をした若い男は、「春日山城址」とかかれた石碑にもたれ、見るものすべてを慈しむような眼差しで、風景に魅入っていた。
山を、緑を、目下に広がる平野を、海を、草花を・・・木の葉ひとつにまで愛おしさを覚える。しばらくして微かな足音が聞こえてくると、男はそのまま目を閉じ、じっと耳をすませ、一歩ずつ近づく愛しい気配を待ち受ける。あと3歩、2歩、1歩・・・目を開けると、そこには最愛の人がいた。「高耶さん・・・」「・・・約束、果たせたな」そういって、愛しの人はふわりと笑った。
「ここから始まったんだな・・・」平野を見下ろし、高耶はぽつりとつぶやく。「そうですね・・・」山頂のせいか、まだ肌寒い。山を登ったときの汗を風に冷やされて肩をすくめる高耶の背を直江が抱きしめる。「あとで、一緒に海を見に行きましょう」「ああ・・・」そのまましばらくの間、2人は平野を見下ろし、湧き上がる様々な思いに身をまかせていた。「・・・そろそろいきましょうか。待ちくたびれてるでしょうから」「そうだな。早く行かないとねーさんにどなられる」「お酒を前に、おあずけを食らった犬みたいになってそうですね」「お前に犬呼ばわりされたらおしまいだな」「何かいいましたか?」「なんでもねー。ほら急ごうぜ。夜叉衆そろってのお花見へ!」◆ 1 ◆朝焼けの中、海辺にたたずむ男がいる。男は、誰かの名を呼んだあと、まっすぐ顔を上げ、歩き出す。力強く、確かな足取りだった。やがて男の影は小さくなり、朝焼けの中へと溶けて消えてゆき・・・あとには海鳥の鳴き声と波音だけが残った。「はい、カーート!!・・・OKです!」その掛け声とともに歓声が起こった。「お疲れ様でしたぁ〜!」「最高だったよ!!」「クランクアップおめでとう!!」----今日は、丸3年の月日をかけて制作された超大作映画「炎の蜃気楼」の撮影最終日である。ラストシーンを撮り終えた直江を皆が歓声と興奮と涙で迎える。「よっ!お疲れ旦那」「長秀」終盤の宿体「波元幸平」の特殊メイクをおとした千秋修平は、どこかでシャワーをあびたのか、濡れた長めの髪を拭きながらやってきた。直江はまだ、どこか現実に生きてない様子でぼんやりとそれを見つめる。「お〜い、もしも〜し、生きてるか?現実に戻ってこいよ〜」直江の目前で手を振る千秋に、直江が笑う。「ああ、大丈夫だ」「生きているんだなと・・・そう考えてたただけだ・・・」二言目は誰に向けての言葉なのか・・・直江は、赤くに染まる海を見やり、水平線のかなたを見つめてこれまでの長く険しい道のりをなぞる。この「炎の蜃気楼」という作品は、特殊な環境で撮影されていた。監督である榛原優月は、キャストらに演ずることを禁じ、演技ではない生々しく匂うまでの本物、それを目標に作られた作品だった。そのためにまず、キャストは素人を起用し、ほぼそのキャストのプロフィール通りの人物を作中に登場させた。「仰木高耶」、「橘義明」といった役名もすべて本名である。脚本はあってなきがごとし。基本設定のみし、あとはキャストらの意向にまかせるというものだった。毎回キャストらの意思---どうするのか、何をしたいのかを聞き出し、それを元に榛原が演出を加えるという手法で、小刻みに渡される脚本は時には白紙で渡されることすらあった。「好きなようにやってみろ」。監督の指示はそれだけである。それゆえに出演者たちは素の自分をさらけだし、心の底から叫ぶ。時には役と自分との境がなくなり、役の傷を己の傷とし、多大なダメージを受けて精神を病むものさえ出るほどの過酷さであった。特に、高耶と直江は、一部、二部、三部と出ずっぱりで、この3年間ミラージュの「高耶」と「直江」でいた時間の方が圧倒的に長く、もはやそれは役ではなく完全に自分自身である。いや、はじめから自分以外の何者でもない。松本からスタートしたこの物語を、一歩一歩己の足で歩んできた。・・・すべては自分の生き様の軌跡だった。「直江さん!はい乾杯しますよ〜!」いつの間にか、打ち上げへと突入していた。「みんなご苦労だった。クランクアップを祝って・・・カンパーイ!!」榛原監督も至極機嫌がいい。いい作品になるだろう。乾杯のあと軽食をつまむと、スタッフらは撤去作業を再開した。それをぼんやり眺めながらビールを口にする直江に、千秋がメモを渡す。「今日、春日山城址で影虎と会うんだろ?そのあとここに来いよ。宴の用意して待っててやるから。あ、晴家から伝言。酒はひとり1本持参すること、だってよ」メモを見ると、春日山城址の石碑から少し山へ入ったあたりに印があった。「色部のおやっさんも来るってよ」「夜叉衆の花見か?」「ああ、作中ではできなかったな・・・景虎にはもう言ってある」「わかった。昼ごろ行く」「目印は桜の木のみ。迷うなよ」そう言って千秋は、ひらひらと手を振りながら去っていった。「夜叉衆の花見か・・・」彼の喜ぶ姿が目に浮かぶようだ。直江は心に愛しい人の満面の笑顔を思い浮かべ、今すぐにでも電話で声を聞きたい衝動にかられる。だけど、春日山で再会するまでは一切連絡をとらない約束だ。「高耶さん・・・」万感の思いののせて、彼の名を呼ぶ。この思念波はとどくだろうか・・・先刻まであたりを赤く染めていた朝日は今は色を変え、水平線へと続く波間を白く輝かせていた。
2004.7.23 up悩んだ末のこの設定。私の葛藤ぶりがお分かりいただけるでしょうか・・・苦しい・・・(^^;)まだまだつづきます。