◆ 5 ◆「ナオエって名前なのか?」
お腹も膨れてひとごこちした後、高耶は尋ねた。
ピザの注文で、男は「ナオエ」と名乗っていた。
「ええ、『直江』と書くんです」
テーブルに指で字を書く。
「へえ。女の名前みてー」
「下の名前は信綱と言います」
「直江ノブツナ・・・なんか大層な名前だなぁ」
「よく言われます」
直江は高耶を見て微笑む。
「そういうあなたは綺麗な名前ですよね」
「は?」
名乗った覚えはないはずだが・・・
「はじめまして、仰木高耶さん」
「な?!おまえっ!!」
「直江です」
「何で知ってるんだよオレの名前!」
「これに書いてあったので」
そう言って直江は、ポケットから1枚のカードを取り出し、ひらひらと振って見せた。
「それ・・・オレの免許書!!」
「目つき悪いですねぇ、この写真」
「返せ!」
飛びかかってくる高耶をひょいとかわした男は、それを後ろ手に隠す。
「何でてめーが持ってるんだよ!!」
「そこに落ちていたので親切に拾っておいてあげたんですよ」
と、ベランダを指差した。
「じゃあ返せよこの野郎!!」
「直江ですって。名乗ったのですから名前で呼んでくれませんか?ねぇ、高耶さん?」
「気安く呼ぶな!」
直江はくすくすと笑う。そして不思議に思った。
----彼の前だと、こんなに素直に笑みがこぼれるのはなぜだろうか?
普段の直江は、営業スマイル以外にはめったに笑わない。どこか冷めた、人間として、何かが欠落したような人間だった。
『ロボット』『人形』。そんな風に評されることも多い。特に恋人に。振られる時の理由のナンバー1がこれだった。
(なのに・・・)
何か、胸にあたたかいものが生まれた気がした。
「で、何が欲しいんだお前」
「直江です。高耶さん」
「・・・直江」
「はい」
直江は嬉しそうに返事をする。
(何がそんなに嬉しいんだか・・・)
「とりあえず、聞くだけ聞いてやるから言ってみろ」
プレゼントをくれなきゃ帰さないと駄々をこねる男にさじを投げた高耶は、とりあえず欲しいものを聞いてみることにした。
「そうですね・・・」
「言っとくけどオレ貧乏だからな。高いものはやれねぇぞ。家事とか、肉体労働じゃだめか?」
なんだかんだと晩飯をごちそうになったので、そのくらいならしてやってもいい。
そんな彼に直江は、
「お金で買えるものはいりませんよ。今のままで充分事足りてますから」
しゃあしゃあとそんなことを言ってきた。
「・・・そーだよな。お前金持ちそうだもんな〜」
高耶は、男の服装や、部屋の家具類を見回して言った。素人目にも、そのへんの量販店で売ってるようなものとは格がちがうとわかる。何より、この部屋の広さと、天井の高さ、それでいて都心という立地がそれを雄弁に語っていた。
「まあ、意見が一致してよかった。で、何して欲しいんだ?掃除か?洗濯か?料理もできるぞ・・・ってもう食ったか。あとはアイロンがけとか・・・ああ、肩でももむか?」
もう何でもいいから早くやって早く帰って早く寝たい。
「そう言われてみると・・・困りますね」
だが、男は真剣に考え込んでいた。
どうやって、この青年を引きとめようか、と。
「何でもいいから早く決めろよ」
目の前の男は、沈黙したままだ。
待ちくたびれてきた高耶は大きくあくびをした。お腹が膨れて眠くなったようだ。
「そんなに焦らさないで。今考えているんですから」
「あのな〜そんな真剣に・・・そーじとかでいいだろ」
「そんなの嬉しくありません」
「じゃ、洗濯」
「クリーニングに出してます」
「全部?!」
高耶は一瞬呆れ、そしてむっとする。
「この贅沢野郎」
「別に普通じゃないですか?」
「あのな〜シャツ1枚分でレンタルビデオ1本借りられるんだぞ?」
もったいね〜と高耶はソファーに反り返った。
「なあ、お前欲しいもんとか実は何もないんだろ?生活満ち足りてそーだし」
「確かに不自由はしていませんが、満ち足りてると感じたことはありません。・・・何かが足りないんです・・・足りなかったんです」
そう言ったあと、直江はふと気付く。
「そう、足りなかったはずなんです。だけど今はその何かが・・・埋められてる気がするんです」
「はぁ〜?」
なんじゃそりゃとまた大きくあくびをした高耶は、ずるずるとソファーに寝そべった。
1限目からの授業に、肉体労働のバイト、そして思いがけずスパイダーマンごっこをするはめになった高耶は正直くたくただった。
そこへ、あたたかい部屋と満腹感と居心地のいいソファー、そして、この男の声。
低く響くその声は、不思議と高耶を安心させる。
襲い掛かかってくる睡魔に、抗うことはできなかった。
(まぶたが重い・・・)
「満たされたのは、あなたのせいでしょうか?」
(声が遠い・・・)
「あなたといると、暖かい気持ちになるんです」
(うん・・・暖かいな・・この部屋)
「外見だけの抜け殻に魂が宿ったような・・・」
(抜け殻・・・セミの・・・)
「それは、あなたに出会えたから」
(出会う・・・クマ・・・森・・・・)
高耶はもう夢の世界の住人になっていた。
だから・・・今目前に迫る危機にも気付くことができなかった。
「高耶さん・・・あなたが欲しい」
高耶の頬が温かいものに包まれる。
そして、唇がやわらかく湿ったもので覆われた。