富松の昔話

茨木童子(いばらぎどうじ)


 昔、東富松(ひがしとまつ)に子のない夫婦が住んでおった。子のないことで、さびしく暮らしておった。
 ある日、なんと子どもが生まれた。それも男の子。丈夫な子じゃ。夫婦はうれしゅうてならんかった。ところがじゃ、丈夫な子でよかったんじゃが、丈夫すぎた。生まれたときから、口には牙が生えとるし、髪の毛は黒々と長(なが)い。いやもう、大人の顔。
 それに十日もたったらはいだした。そうなると、あんなに子ができたとよろこんでいた夫婦は、子どもがきみわるうなりだした。また、近くの人たちも、親戚の人でさえも「鬼の子じゃ。」と、こわがるのじゃ。ほとほと、夫婦も困りはててしもうた。
 そこで、いろいろと思案をした末のこと、とうとう子どもを捨てることにした。夜こっそりと、おっとうは子どもを背負うて家を出た。歩けど歩けど、背中の子がかわいそうでならんかった。大坂の茨木まできてしもて、山の中に、背負ってた子をおろし、あともみんと、逃げるようにして家に帰った。
 捨てられた子どもは、かなしゅうてかなしゅうて1人泣いておった。通りかかった丹波(たんば)の酒呑童子が、拾うてくれた。
 丹波の酒呑童子は、鬼とまちがわれるような大男、大江山(おおえやま)に住んでおって、都へいっては、悪いことばかりするようなあばれんぼうやった。泣いていた子どもを連れ帰えった酒呑童子は、茨木で拾うたから茨木童子と名をつけ、自分の家来にして育てた。
 茨木童子はずんずんと大きくなり、酒呑童子にとって、なくてはならん家来の一人になっていた。体はでっかく、みるからに猛々しく、おそろしい顔をしておったが、心の中はやさしくて、自分を生んでくれた親のことは、忘れたことがなかった。
 あるとき、風のたよりで、父親が、病気で寝ていることを知った茨木童子は、矢も盾もたまらなくなり、大江山を出た。走って走って、東富松の家にたどりついた茨木童子をみて、親は、鬼が入ってきたかと、腰を抜かさんばかりに驚いた。聞けばわが子。それも、病気の親のことを心配して来てくれた。「やれうれしや。」と喜んだ。そして、いろいろの食べものを食べさせた。けれど、まわりの人は茨木童子をみて、「おおこわや、こわや。」と、こわがる始末。
 茨木童子は、「京都の東寺(とうじ)の門にいます。もうお会いすることはないでしょう。」と、丹波へ帰ってしもた。父親は、人に頼んで追いかけてもろたけど、裏道をキツネのように駆けていって、みつからなんだ。

尼崎の民話第一集(尼崎市教育委員会事務局青少年教育部児童課発行1991年)より

 


茨木童子2


 昔、東富松のある家に男の子が生まれました。生まれながらに牙が生えて、髪が長く、眼光するどかったので、一族の人はおそれて、茨木(茨木市)に捨てました。その子を大江山の酒吞(しゅてん)(顚)童子が拾い、茨城童子と名づけて育てました。
 ある時、妙術で父母が病気にかかっていることを知った茨城童子は、東富松へ見舞に戻ってきて、父母の床のそばにひざまずき、今までのことを語りました。父母は餌(だんご)を出して食べさせました。
 童子は、「私は今、都の東寺(教王護国寺・京都市南区)の門に住んでいます。また来ることはできないと思いますので、これがこの世でのお別れです。」と嘆き、別れを告げました。
 父母は、人を頼んで童子の後を追いかけてもらいましたが、本道を行かず、畦道(あぜみち)を野狐が飛ぶような速さで駆けて行き、追って行った人は、ついに行方を見失なってしまいました。
 東寺に住んでいるのなら、そこに安住できるようにと願う父母の心を察して、童子を見失なった所を「安東寺」(のちに安堂寺・伊丹市)と呼ぶようになった、と伝えられています。
 また、童子が戻って行ったとされる日に「餌祭(だんごまつり)が行われるようになり、その古祭は、西富松須佐男神社の「八朔祭」(八月朔日)に伝承されています。
東富松・西富松須佐男神社(武庫之荘東1丁目18)

富松の夜泣き石
 

 尼崎市富松町に複数存在する「夜泣き石」も「帰りたい」と泣く石である。尼崎市立尼崎北小学校の児童たちによる『富松風土記』には以下のような伝承を記している。
「夜泣き石はむかし門の礎石か、また川底をさらっていたらでてきた石と言い伝えられたといわれています。ある日、ある人がこの石を「形がよいので庭石にしよう」と言い、石を庭石にしてしまいました。しばらくして…石がもとにもどりたいといったそうです。本当に話したわけではありません。夢の中で?それで、ある不幸なことが起こったので、もとの場所に帰そうということになりました。「帰りたいよー」といって石が泣いた夢をみたそうな。」
 そして児童たちは「夜泣き石は三つある」と教えられ、富松橋・円受寺ともう一つ、個人宅にある石を訪ねていくのだが、残念ながら他の庭石と区別がつかなくなっていたようだ。
 円受寺の住職である橋本一哉氏の談話と、『富松風土記』による『みちしるべ』三十四号では、少し異なる伝承になっている。
「東富松川にかかる富松橋の東詰に大きな石があって、「夜泣き石」と呼ばれています。東富松の円受寺にも「夜泣き石」と呼ばれる大きい石があります。この「夜泣き石」にはつぎのような由来が伝えられています。その一つは、もと川にあったので、「川に戻りたい」、もう一つは、「もと昆陽にあったので、昆陽に戻りたい」、今一つは、もとこの二つの石は夫婦だったので「一緒になりたい」と言う三通りです。夜、橋を通る人に泣いて訴えるということです。」

【参考文献】
「三つ目の夜泣き石」(富松風土記編集委員会『富松風土記』尼崎北小学校、一九九三)
「富松の夜泣き石」(「みちしるべ」34、二〇〇六)
【伝承地】富松橋
     円受寺 富松町 1-25-14