尼崎市富松町に所在する富松城跡は、今から約500年前の戦国時代の城館跡です。
『大徳寺文書』に長享(ちょうきょう)2年(1488)正月付の<富松城縄竹代>100文の支出を大徳寺如意庵領(だいとくじにょいあんりょう)鳴尾田地(でんち)年貢の前年分収支決算が残されており、これが文献資料での富松城の初見となっています。その後、永正(えいしょう)4年(1507)の室町幕府の有力守護大名であった細川氏の家督をめぐる分裂抗争に端を発し、16世紀前半期に畿内で繰り広げられた戦乱では、阪神地域も主戦場のひとつとなります。当時この地域の拠点であった尼崎城・伊丹城・越水城(こしみずじょう)(現西宮市)のほぼ中間に位置する富松城は、攻防の舞台として『細川両家記』などの軍記に度々登場します。
富松城については、地籍図などからこれまで1町(約100m)四方の規模をもち城館とかんがえられてきました。しかし、近年の富松城跡及びその周辺地域での発掘調査等によって、東西約150m、南北約200m以上の規模をもつ城館ではないかと考えられるようになっています。また、城の構造についてはまだまだ不明な部分が多く残されていますが、堅固な土塁の内部には長大な堀を巡らせていたのではないかと考えられます。今後の発掘調査等によって規模、構造とともに築城の時期、変遷過程、廃城の時期など富松城の状況が次第に明らかになってくれるものと思われます。
現在、富松城跡の大半は宅地化が進み、かつての姿を留めていませんが、県道西宮豊中線と道意線の交差点の南東角に樹木の生い茂った小山として今も残る土塁遺構は、地上に現存する富松城の唯一の遺構です。この平地に築かれた戦国時代城館の土塁遺構は兵庫県下でも数少ない遺構であり、阪神地域で繰り広げられた戦国時代の争乱の様子を如実に物語る歴史的記念物として、また都市部に残る緑豊かな憩いの場として地域のシンボルであり、市民にとってかけがえのない地域遺産です。
参考文献
「もっとしりたい中世の富松城と富松」 富松城跡を活かすまちづくり委員会 2007年発行